見つけた。

昨日、本物の作家のブログを見つけた。
小説kinema http://toruokuda.hatenablog.com/
ブログにある作品は掌小説だが、はじめの言葉で彼の世界に引き込まれた。
まるで、本当のことだと錯覚してしまう。
息子を亡くした母親のこころの痛み。
バイオリンを捨てに行く少女の探検。
若い男にこころ踊らせる中年女の悲哀。
どれを読んでも、いつのまにか本当のことと思って読んでいた。
すごいとしか言えない。

作家の道は果てしなく遠いと思った。。。

20180930-青春だなあ 44枚

修正2018/11/02


 一

 一九九〇年、バブルがはじけた。株価は急落し、景気が一気に冷え込んだ。企業は、生き残りを掛けて解雇や早期退社をつのった。そのため、多くの会社員が安い賃金でバイトや日雇いに従事せざる負えなかった。ひどい時代である。
 その頃、佐藤武史も就職に失敗して、その日その日をバイトで食いつないでいた。中でも、コンビニのバイトは、店長がいい人で、もう三年続いている。
「佐藤くん、昨日は三時から穴埋め、悪かったね。今日は、もう上がっていいよ。後でタイムカード押しておくから。ご苦労さん」
「ありがとうございます、店長」
 いついもより二時間早い、午前六時前のバイト上り。登りはじめた太陽に思わず手をかざす。その中に見えるものは、夜勤明けの男の疲れ切った顔だった。思わず、コンビニ定員の挨拶が出てしまう。
「お疲れさまです」
 疲れ切った男は、不思議そうに目線を上げて武史を見る。
「ああ、コンビニの。お疲れさま」
 男は、ニッと笑って首を下げて、コンビニへ吸い込まれていった。戦友、そう思っているに違いない。武史は、生きづらい時代を必死になって生きている仲間として、わずかなエネルギーを得た思いだった。
 夜食は午前五時に食べている。これからは、歩いて十分のアパートへ着いて顔を洗い、シングルベッドに百七十六センチの身を投げ出すだけである。そう思うと、なんと気持ちいいことか。
 築二十年の六畳一間と、一体型バス・トイレ付。家賃四万二千円は学生街では、普通だろう。武史は、このアパートに大学一年から住んでて、かれこれ七年もお世話になっている。まさか、これほど長く住むとは思っていなかった。もうそろそろ出て行きたいが、いかんせん金が掛かる。それゆえ、ここから動けないのである。武史は、眠い目をこすりながら、アパート一階の一〇三号室にたどり着いた。
 その時、不意に一〇二号室のトビラが開いて、出て来た女と目が合ってしまう。三十歳ぐらいか。百六十センチほどのスリムな身体に、ジーパンにジャンバー言ういでたちで、キャップをまぶかに被っている。武史は、またしても口癖が出てしまう。
「お疲れさまです」
「え?」
 女は、目を白黒させていたが、探るように「お疲れさまです」と返した。
「あ、すみません。いつもの口癖が出てしまって」
「そうでしたか。えーと、私は一か月前に引っ越してきた、向田です。よろしくお願いします」
 そう言って向田は、キャップを取って頭を下げた。ボブカットが美しい放射線を描く。そのうなじに、武史は息を飲む。
 それにしても、引っ越してきたなんて気づかなかった。よほど、気を使って荷物を運びこんだのだろう。そう思い、武史は感謝の気持を表した。
「俺はコンビニ店員をしてます、佐藤武史です。お弁当は、いつもニコニコ、丸さんコンビニへ。お茶、サービスしますよ」
「あら、そうなんですか。そのお店だったら、今日、行ってきましたけど?」
「それは、どうも。でも、俺は夜番なんで、午後八時からなんですよ」
「それじゃ、今晩、お茶をご馳走になりに行きます」
「わかりました、待っています。では、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
 向田は、敬礼をしてさっそうと歩いて行った。もしかして、警察官かなと思いながら、武史は一〇三号室のカギをまわして、部屋に入って行った。眠かったはずなのに、向田の顔が浮かんで、なかなか寝付けない。ひさぶりに寝酒をあおった。


 二

 午後三時。佐藤武史は、目覚ましを止めて、起き上がる。カーテンを開けると、強い日差しに目がくらんで、手をかざす。今日は、うっとおしいほど天気がいい。
 半分眠っている顔を洗って、トーストした食パンにマーガリンを塗ると、ゆっくりとそしゃくして、最後にコーヒーを味わう。食べ終える頃には、すっきりと覚醒する。武史は、歯を磨くと、ゆっくりと新聞に目を通した。
 一九九三年四月十九日、月曜日。昨日、航空機事故があったらしい。重軽傷者五十八名の痛ましい事故であるが、幸いにも死者はでなかったようだ。しかし、重傷者の中には、もしかしたら腕や足を失った人がいるかも知れない。武史は、航空機事故はやはり怖いと思う。できたら新幹線で移動したいものだと思った。もっとも、乗る予定はないのだが。
 新聞の見出しにさーと目を通すと、ほかに気になる記事はなかった。続けて挟んであるチラシに目を通すと、パン屋が新規オープンしたらしい。武史の好きなクロワッサンが、クーポンでなんと百円である。急いで身支度をすると、パン屋を目指した。

 コンビニとは反対側に歩いて十分のところに、お店は開店していた。ベーカリー芳江の看板が新しい。その前は、確か回っていないお寿司屋さんだったが、景気が悪くなって客足が減ったのだろう。その代わり、庶民の見方、安くて美味しいパン屋に生まれ変わったのだ。これも、時代の盛衰として歴史に刻まれて行くのだろう。
 店の中へ入って行くと、客でごった返しである。主婦と学生たちが目を輝かせてパンを選んでいる。武史は、残りわずかとなったクロワッサンをうれしそうにトレーに乗せた。
「あれ! 佐藤さん」
 その声に振り向くと、向田がたくさんの客をかき分けて、にこやかに近付いて来る。白いユニフォームと、清潔そうな帽子を被って、手の甲には白い粉が付いている。その指先を見ると、なにも塗っていない爪が短く切りそろえられている。武史は、その指にも魅力を感じた。
「向田さん、こんにちは」
「今朝から開店したんですよ。あなたにも知らせようと思ったんですが、時間がなくてすみませんでした」
「ええと、もしかして向田さんのお名前が、芳江ですか?」
「ええ、そうです」
 そう言って、向田はバツが悪そうに笑った。たぶん、親がお金持ちなのだろう。そう武史は思ったが、触れられたくないことだと思い、話題を変える。
「今日が開店で急いでいたのに、声を掛けちゃってすみませんでした」
「いいえ。ところで、このグリッシーニはぜひ食べてくださいね。おやつのように食べれますから。それじゃ、わたし焼き上がったパンを並べなきゃいけないので、これで失礼します」
 そう言って、向田はあわただしく厨房へ消えて行った。
 武史はその姿を見送ると、五本のグリッシーニをトレーに取って、それにチキンサンドも加えた。夜食には充分である。トレーを年配の女性が待ちかまえるレジのカウンターに置くといらっしゃいませの声が響いて、手早く種類ごとに袋に包まれ、それが大きな袋にまとめられた。きっと、一か月の間に練習したのだろ。武史は、その接客に気持をよくして、お尻のポケットから財布を出した。
「向田から聞いております。本日は、サービスですのでお代はけっこうです。ありがとうございました」
「え! どうも、ありがとうございます」
 たぶん、千円はする。これは、ぜひともお返しをしなくては、と武史は思った。しかし、飲み物で返すには金額が大きすぎる。そこで、飲み物を複数回に分けてお返ししようと思った。その方が、自然にできるからである。

 パン屋を出ると、学生街は夕日に染まっている。講義を終えた学生たちが、たむろってどこかへ出かける。食事か、それともコンパかわからないが、みな楽しそうになにかを話している。武史は、最近仲のいい友だちはいなくて、一日の内で話すのはコンビニの業務連絡ぐらいなものえある。それを、べつだん寂しいと思ったことはなく、返ってわずらわしくなくて、いいことだと思っていた。
 だが、今日出会った向田ともう少し話していたいと言う欲求がふつふつとわいて来た。武史は、その思いを振り払うように、コンビニへと入って行った。


 三

 午後八時過ぎ。武史は忙しくコンビニで働いていた。相棒の根岸はまだ学生で責任ある仕事は任せられないので、武史が仕切ることになる。製品の補充と発注、弁当の受け入れと賞味期限切れの弁当の廃棄、電気代などの入力、そして店の清掃。やることは多い。武史は、それらをソツなくこなしていた。

 その時、ピンポーン、ピンポーンとチャイムが鳴って、客が入って来た。
「いらっしゃいませ」
 武史がそう言って入り口を見ると、向田がキャップに手を掛けて微笑んでいる。つられて、武史も笑顔で頭を下げる。体温が少しだけ上がった気がする。
 向田は、手にカゴを持つと、まず弁当とお茶を選んいる。やはり、パン屋だとは言っても、三食それだと飽きるのだろう。向田は、それから雑誌コーナーで文庫本をゆっくりと選んでいる。武史は、その姿を時折盗み見て、弁当の搬入をしていた。
 武史が、空のコンテナを下げて去って行く弁当センターの業者に「ありがとございました」と挨拶すると、向田はカゴを手にして、レジにやって来た。
「いらっしゃいませ、向田さん」
「どうも、佐藤さん」
「今日は疲れたでしょ?」
 手を動かしながら、言葉を返す。当然、目線は常に商品に行っている。
「ええ、でも今日は完売でしたから疲れも吹き飛びました。明日も、こうだったらうれしんですけど。それで、どうでしたか、味は?」
「すみません。まだ、食べていません。夜食にしようと思って。でも、自信があるから開店したんでしょ? 美味しそうだもの」
「はい、自信はあります。でも、万人に受け入れられないと。だから、ひとりひとりの感想が欲しいんです」
「わかりました。明日のこの時間でかまわないですか?」
「はい、よろしくお願いします」
「えーっと、四千六十二円になります」
「はい」
「三十八円のお返しです。お待たせしました。お約束のお茶、選んでくださいね」
「それじゃ、これお願いします」
 武史は、別会計で清算をして、向田にお茶を差し出す。
「はい。ありがとうございました」
「ありがとうございます。それじゃ、また、あした」
 微笑みながら、向田は店を出て行った。後ろ姿も格好いい。
「先輩。あの格好いい女性と知り合いなんですか?」
 一緒に見取れていた根岸が、武史のコンビニの上着を引っ張って、言った。
「ああ、あの人はアパートのお隣さん」
「先輩。うらやましいです」
「なに言ってるんだ。ただの隣人で、これからはアダルトビデオもボリュームしぼって聞かなきゃいけないんだ」
「わざと大きくして聞かせるとか?」
「バカ」
「へへへ」

 武史は、深夜零時に夜食を食べた。クロワッサンはバターがほどよく効いていて、サクサクした触感が食欲を誘う。チキンサンドのパンはちょっと硬めの食感で、表面をカリッと焼いたチキンにほどよく合う噛み応えである。そして、グリッシーニはサクサクしてまるでおやつのように胃袋に入ってしまった。
 なるほど、これだけの腕があれば、勝負してみようと思っても、不思議ではない。武史は、一度でファンになった。


 四

 武史のシフトは、夜八時から朝の八時まで。週に一日、不定期に休みを取っている。その方が、ありがたられ、時給がいいのである。そして、常に夜番で時給は跳ね上がる。それで、月二十万以上もいただいているのである。
 バブルがはじけた時代。バイトでこれだけもらったら文句は言えない。まじめにコンビニ店員を勤めていた。

 午後八時過ぎ。向田は現れた。今夜の服装はガラッと変わって、あわい色のセーターに、ベージュのフレアスカートを身にまとっている。店内にいた人は、みな彼女にくぎ付けである。もちろん、武史も思わず見とれてしまって、いらっしゃいませの声が上ずった。
「こんばんは。それで、食べてみた感想は?」
 向田は、よほど武史の言葉が聞きたかったように、矢つぎばやに言った。まるで飼い主に餌をねだる子犬のように。
「美味かったですよ」
「本当ですか? よかった。で、どこがよかったですか?」
「全体にサクサクした噛み応えで、俺の好きなクロワッサンなんて香ばしくて、なにも付けずに全部食べちゃいました」
「本当に? うれしいな」
 向田は、満面の笑みでよろこんだ。武史は、思わず抱きしめたいと思ったが、ふたりはそんな関係ではない。おまけに、今は勤務中である。武史は、コンビニ店員の自分があまい期待を抱かぬように、トーンを下げて言った。
「すみません。俺、今バイト中なんですよ。しかられますから」
「佐藤さん、バイトの時間って、いつまでなんですか?」
「夜八時から朝の八時までです」
「私が、朝六時から晩の八時までですから……」
「合いませんね、時間が。それに、俺のお休みは、大抵、平日ですから」
 武史がそう冷たく言うと、向田は固まってしまった。
「すみません。それじゃ」
 そう言って、武史は通常業務に戻って行った。
「先輩。もしかしてフラグが立っていますよ。コーラを補充している場合じゃないでしょう?」
 後輩の根岸だけではない。コンビニにいる者は、みんなそう思っているに違いない。だが、武史の考えは違った。向田は、パンの評価をよろこんでいる。決して、コンビニ店員が好きになったのではない、そう思っていたのである。
 そもそも、武史が向田にはじめて会った時に、コンビニ店員だと告げたのは、世の中に対する引け目からだった。どうせ俺なんてバイトを職業としていて、一度も正社員になれなかったのだから、誰も好きになるはずはない、そう信じていたのである。
 だが、向田の受け取り方は違かった。コンビニ店員であることに誇りを持って、どうどうとそれを告げる武史を、精神的に大人であると思ったのである。
 ふたりの初対面は、はたから見たら上手く行ったように見えて、その実、決してまじわらない平行線だった。
 向田は、肩を落として帰って行った。まるで、己が交際を断られたように。


 五

 武史が拒絶した翌日、向田は変わらずに現れた。前日と同じ柔らかい色の装いで。
「いらっしゃいませ」
 無言で会釈をする向田。ゆっくりと弁当を選ぶと、カウンターにカゴを置いた。
「いらっしゃいませ」
 武史の声に対して、やはり無言である。それを見ている根岸は、息を止めてうかがっている。
「五百二十円になります。それから、お茶は、サービスですので選んでください」
 向田は、六百円をカウンターには置かずに、武史に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
 受けった時に、向田の手が触れる。武史は、気を持たすのは止めてくれと心の中で叫んだ。
「あの」
「はい」
「どうせ、いつかバレると思うから聞くけど、私の前の職業がキャバ嬢だから?」
「え! ち、違いますよ」
「そう、よかった」
 武史は、このときはじめてあの美しさは、そういう世界で身に付けたものかと思った。だが、向田の美しさは、男に媚びを売るようなものではなく、うちからにじみ出る知性によるものだと思った。
「佐藤さん」
「はい」
「バイトの前に、私の仕事場へ来ていただけませんか?」
「え?」
 武史は、思わず手を止めてしまう。
「私の仕事を知ってもらいたくて」
 向田の目は真剣である。
 武史は、前々からパン工房に興味を持っていた。だが、募集が中々なくて、あきらめていたのである。それを見せてくれると言うのだ。向田との関係を考えないで、思わず言っていた。
「ぜひ、見せてください。お願いします」
「よかった」
「向田さん……」
「ほら、さっさと会計してね」
「すみません」
 向田は、会計を終えると、にこやかに会釈をして店をあとにした。
「先輩、よかったですね」
 根岸はそう言って、武史のわきばらを小突いた。
「いて」
「まったく、先輩は意固地なんですよ。コンビニ店員だって、恋する権利はありますよ」
「根岸くん……」
「明日は、早起きして行ってくださいよ。そして、パンの作り方、よく見て来てください」
「そうするよ。ありがとうな、根岸くん」
 その時、お客のひとりが言った。
「青春だなあ」


 六

 翌日の午後一時すぎに目が覚めてしまった。あいにくの雨だった。武史は、シャワーをあびると、朝食もそこそこに傘をさして表へ出た。この雨は、夜半には止むと今朝の天気予報で言っていた。それにしても、激しい雨である。武史は、ジャンバーの襟を立てて歩いて行った。
 ベーカリー芳江に着くと、傘の水滴をはらって、店の中に入って行った。今日も大勢の客が来ている。武史は、客の中をかき分けて店員に声を掛けると、厨房のトビラを開けた。
 向田は、白いユニフォームに身を包み、ステンレスの台の上で、生地を折っていた。武史が、来たのがわからないほど、真剣にその動作を繰り返している。武史は、唾が飛ばない距離で、声を掛けた。
「こんにちは、向田さん」
「ああ、ビックリした。佐藤さんでしたか」
 向田は、うれしそうに微笑んだ。武史もそれにつられて笑顔になる。
「今、クロワッサンの生地を折っています。これを、五十四回繰り返します」
「大変ですね」
「そうでしょう? あと十回ほど折ったら、食パンを仕込みますから、ちょっと待っててくださいね」
「はい」
 厨房の中はひんやりとするくらいの温度で、十八℃くらいか。その中で、向田はもくもくと生地を折っている。きっと、クロワッサンを折るには、中に折り込んだバターが溶けないくらいの温度がいいのだろう。
 それでも、向田の額には汗がにじんでいるので、かなりの重労働のようである。長袖のユニフォームで腕は見えないが、スリムな身体のわりにきっと太いだろう。
「できた。あとは冷蔵庫に一時間、寝かせてから焼き上げます。そうすると、ちょうど夕食の時間に合いますから、匂いにつられてみなさん、買ってくれます」
 そう言いながら、向田は切り分けた生地をすばやく冷蔵庫に入れて行った。
「寒いでしょう? 今、厨房の温度、上げますから」
 そう言って、向田はクーラーの設定温度を上げた。そして、汗を手拭いでぬぐうと、ひと口、ペットボトルの水を口に含んで、両腕を上げてひとつ伸びをした。
「やっぱり生地を冷蔵庫に入れても作業している間に、温度上っちゃいますか?」
「ふふふ。やっぱりパン、作ったことあるのね。どこでやったの?」
「そんな大したことやってないですよ。家でちょっと焼いただけですから」
「それじゃ、私の苦労もわかるわね?」
「はい。女性なのに、ひとりで店のパンを焼くなんてすごいですよ」
「そうなのよ。それでこのルーティンが必要なの。ひと作業終えるごとにすると、疲れが溜まらないから、佐藤さんもやってみてください」
「わかりました。コンビニで作業をひとつ終えるたびにやってみます」
「それじゃ、パン作りの基本、食パンの仕込み、はじめますね」
 向田は、小麦粉の袋からステンレスの容器に計り取ると、大きな撹拌機に入れた。そして、水、砂糖、塩、バター、ドライイーストを次々と加えると、撹拌機のスイッチを押した。
「どう? 食パンは疲れないでしょう? 手でこねるのは、焼く前の形を整える時だけだから」
 そう言って、向田は再び顔を拭いて水を飲むと伸びを打った。無意識の内にできるらしい。
「明日から、やってみる?」
「え! いいんですか?」
「コンビニの仕事ぶりから、目を付けていたのよ。それに、思ったようにまったくの素人じゃないし。それで、スカウトしようと決めたわ」
「本当に?」
「本当に。明日は四時に入ってくれる? その時間に、翌日に店に出す食パンを作ってもらうから」
「わかりました」
「よかった。それじゃ、食パンの仕込み続けますね」
「はい」
 そう言って、向田は撹拌機から生地を出すと、三十℃のホイロ(恒温機)に入れた。そして、隣りのホイロから生地を出すと(たぶん、なん十分か置いたのだろう)、ガスを抜いてすばやく切り分けて、形を整えた。そして、四十℃のオーブンで三十分置くと、食パンの型にショートニングを塗って生地を載せると、二百℃のオーブンに入れた。
「食パンは、形を整えるのが肝ね。上手くやらないとパンがきれいにさけないから」
 そう言って、向田は手で引きさく動作をした。
 タイマーで三十分後に、焼き上がった食パンをオーブンから出すと、いい匂いに厨房が満たされる。武史は、こんな匂いに包まれて仕事ができる幸せを感じていた。
「どう、いい匂いでしょう?」
「はい、本当に」
 向田は、その言葉に満足そうに微笑んだ。
「それで、給料だけど時給千六百円しか出せないの。それで、いいかしら?」
「え! そんな、もらえませんよ。教えてもらっているのに」
「佐藤さん。覚えるのも仕事だよ。すぐに、戦力になってもらうからそのつもりで真剣にやってね」
「わかりました」
「これで、私の労働時間が十二時間切るわ」
 俺は、十六時間労働になると言おうとしたが止めた。いずれコンビニを辞めなくていけないと、武史は思った。

 その時、雷が鳴り響いて一瞬電気が消えた。
「きゃ!」
 そう叫ぶと次に瞬間、向田の身体は武史の腕の中にあった。その感触を武史は味わう。そう言えば、セックスしたのはもう四年も前になる。就職が上手く行かず、女に見限られたきりだった。
「す、すみません」
 そう言って、向田は背を向けた。それは、真っ赤になった顔を見られないためか。
「佐藤さん。もう、コンビニの時間ですよ」
 その声に、腕時計を見ると、あと十分で午後の八時だった。武史は、失礼しますと言うと、雷におびえながら傘をさしてコンビニへ走って行った。


 七

「先輩、ねえ先輩!」
「ああ、根岸くん。どうしたんだ?」
「しっかりしてくださいよー」
 根岸は、泣きそうな声でそう言った。
「え?」
 武史が手元を見ると、空き缶のバーコードをなんども読み取っていた。お客が、心配そうにレジに立っているのに気が付くと、あわてて間違いを消去して会計をはじめた。
 いつもの武史は、テキパキしているのに、今日の彼はまるで魂を抜かれたように別人だった。
 レジを打ち終えると、武史の意識は再びどこかにさ迷っていた。根岸は、ため息を付いて武史の両手を抑えると、お願いした。
「先輩は、今日はなのもしないでください。僕が、やっておきますから」
「……でも、根岸くんは搬入なんかしたことないんじゃ?」
「大丈夫です、先輩の仕事ずっと見ていたから、できます」
「根岸くん……」
 今日の根岸は、いつになく頼もしく見える。武史は、自分で何でもやり過ぎたと反省し、ありがとうと言うと、バックヤードに消えた。
 武史はイスに腰掛けると、ボーとした頭で根岸とお客の会話を聞いてしまう。
「いらっしゃいませ」
「ねえ、今日の彼、おかしいんじゃない?」
「お客さんも、そう思いますか?」
「あれは、きっと恋わずらいだよ。にやけた顔を見るとわかるよ」
「実は、パン屋の美人にラブコールを受けて、今日行ったんですよ。そして、帰ってきたら、ああなってました」
「やっぱり」
「治るでしょうか?」
「治ると思うけど、きっと長引くなー」
「はあー」
「あははは、青春だなあ」
 そう、うらやましいそうに言って、お客は店をあとにした。雷が鳴り響く中、お客の足取りは軽やかだった。


 八

 次の日から、武史は午後四時からベーカリー芳江で働き、午後八時からコンビニでバイトをすると言う生活になった。身体はつらいが、真剣の製造に取り組み、最初の食パンから店に出せるだけの仕上がりを見せた。
 なぜ、これほど優秀なのに正社員として就職できなかったかと言うと、バブルがはじこともあるが、武史のプライドが高かったこと大きい。
 偏差値七十二。それが武史の高校入学時の偏差値だった。そんなポテンシャルを持っているのに勉強をせずに遊びほうけて、入った大学は三流のなんの技術も身に付かないところであった。
 それなのに、就職活動ではへんなプライドを持って、一流企業しか受けなかったのだから、就職に失敗するのは当然だった。親にも見放された武史は、やむなくコンビニのバイトの面接を受けたのである。
 だが、徐々にいい方向に変わり始めた。それを、武史は身体で感じていた。

 午後十時、コンビニの客はまばらで、いそがしい時間をすぎた頃だった。武史は、先に休憩を取って、しばし目をつむって仮眠をむさぼっていた。その時、バックヤードへ根岸が、あわてて入って来た。
「今、先輩にお客さんが」
「……ああ。ありがとう」
 武史が、眠たい目をこすって店頭に顔を出すと、そこには黒いスーツを着た女がいた。
「くるみ……」
「武史、ひさしぶり」
「どうしたんだ?」
 麻生くるみ。卒業以来、三年ぶりの再会である。確か、文具メーカーに勤めたと思うが、化粧が上手くなって、ますます遠いところへ行ってしまったと、くるみをまぶしそうに見つめる武史。大学一年から付き合って喧嘩もしたが、心底愛していた。だが、武史の就職が中々決まらないうちに、くるみは距離置くようになり、卒業と共にお別れをした。
 そして、誰からか聞いたのであろう、武史の勤めているコンビニへ訪ねた来た。きっと、アパートに会いに行くと勘違いされるのがいやだったのだろう。
 武史はそう考えると、一体なぜ会いに来たのかわからなかった。
「元気そうね?」
「まあまあね」
「その分だと、世の中のきびしさがわかったようね?」
「ほんと、バカだったよ、俺」
 そう言って、武史は力なく笑った。それを見て、ほっと安心したようなくるみ。
「ねえ、小さな事務用品の会社だけど、正社員になる気はない? もちろん、給料は安くてサービス残業はあるけれど、社会保障はあるから安心よ?」
「くるみ……」
 なぜ、俺に就職を世話してくれるのか疑問はあったが、くるみの申し出は、正直ありがたい。
 だが、今は向田に付いてパン作りを学んでいる所だ。これが、生涯の職業になるかはわからないが、途中で止める訳にはいかない。
 悩んだ末に、向田について行こう。そう、武史の中で答えを出した。
「ありがとう。でも、今はやりたい仕事があるんだ。だから、その話は遠慮するよ」
「仕事ってなに?」
「パン作りだよ」
「パン? それで、その仕事は安定なの?」
「いや、俺はやり始めたばかりだし、開店したのはついこの間で、まだ安定のかはわからない」
「それでも、やってみたいのね?」
「うん」
「……わかったわ。でも、気が変わったらすぐに電話してね」
「電話番号は?」
「ポケベルは、あの頃から変わってないよ」
 そう言ったくるみの顔はひどく心配そうで、無理に笑っているのがわかる。くるみの後姿は、駅に向かって歩いて行って、やがて消えた。


 九

 なにかもが順調だった。武史は、はやばやと食パンの製造を任さられ、難しいクロワッサンもOKが出た。そして、器用さが求められる折り込みパンも、またたく間に覚えてしまった。あとは、総菜パンを手が空いた時に覚えることにした。
 一方、コンビニのバイト時間を徐々に減らしてもらってきたのだが、もうそろそろパン職人一本にしぼろうかと思い、バイトの代わりを募集してる時だった。

 朝、ベッドにもぐると、すぐに電話がなった。武史は眠い目をこすりながら、受話器を取った。
「はい、佐藤ですが?」
「こちら、長野総合病院ですが」
 一気に目が覚めた。武史は、緊張して用件を聞くと、母が倒れたと言う。すぐにコンビニとベーカリー芳江に電話して事情を話すと、駅へ向かった。
 長野に向かう列車の中で、武史は親不孝な自分を恥じた。小学校の時に父が死んでから、たったひとりで育ててくれた母。大学の学費を奨学金にたよらず、必死で仕送りをしてくれた。それなのに、就職もできずに心配かけた自分が恥ずかしい。
 武史は、はじめて後悔の念に駆られた。

 長野総合病院に着くと、すぐに病室を尋ねた。名札を確認して病室へ入って行くと、母は眠っていた。三年見ぬ間にますます痩せたようである。看護師に病状を訊ねると、若い女性医師が説明をしてくれた。
「お母さん、ずいぶん無理していたようで、腎臓がだいぶ弱ってました。透析をして、今は落ち着きましたが、これからは無理できないですね」
 原因は、過労と心労による高血圧と説明された。バイトもせずに遊びほうけていた俺に必死になって仕送りをしてくれて、そして就職もできないで心配を掛けていたんだ。武史は、そう思うと涙が止まらなかった。
「母さん、これからは俺が面倒見るから、ゆっくり休んでね」
 その言葉を、眠っている母に語り掛けた。


 十

 雨の降る中、夜行で東京へ帰った武史は、出勤する向田を待っていた。やがてカギがまわり、向田はくらい表情で武史の前に現れた。
「佐藤さん!」
「さっき、帰ってきました」
「それで、お母さん、大丈夫だったの?」
「はい。どうにか持ち直して、よく眠っていました」
「よかった」
 向田は、自分の母親のように、よろこんだ。目じりに涙までためている。その向田の表情を見て、武史はこれから言うことに躊躇した。だが、言わなくてはならない。喉の奥から鉛を吐き出すように口を開いた。
「向田さん、本当にごめんなさい……。パン工房を辞めさせてください」
 武史は、それしか言えなかった。向田は、思いも掛けないその言葉に、声を失う。呆然と、流れ落ちる雨を見ていた。静かに、時間が過ぎて行く。
「それで……、どうするの?」
「大学時代の知り合いに、仕事を世話してもらって、正社員として働こうと思います」
「そうか……。お母さんのためだよね?」
「はい、俺が守ってやらないと」
「わかったわ。お母さん、大事にしてね」
「それじゃ、失礼します」
「さようなら」
「……さようなら」
 向田は別れを言うと、雨の降る中、足早に歩いて行った。傘をさして、口に手をあてて、声をもらさぬようにして。
 武史の足は重たかった。あんなによくしてくれたのに、これから告白しようと機会をうかがっていたのに、これで終わりだなんて。
 だが、前を向いて歩いて行かなければならない、母のために。武史は、自室のカギをまわすと、くるみのポケベルにメッセージを入れた。


 十一

「さあ、挨拶して」
「今日からお世話になります佐藤武史です。よろしくお願いします」
 小さな事務用品の会社のまばらな拍手が、少ない人数をさらにきわだたせる。
 その後、十数人いる社員の自己紹介が続いたが、それを全部覚えてしまった武史。それを見て満足そうにうなずく社長。
「いや、やっぱり頭のいい子を入れてよかったよ。その調子で、仕事をどんどん覚えてくれたまえ」
 先輩社員が説明してくれたのだが、この前辞めた社員が、あまりにも物覚えが悪くって頭を痛めていた社長が、取引先の文具メーカーに勤めるくるみに愚痴をこぼすと、それじゃ高校時代の偏差値七十二の男はどうですかの言葉に、興味を示したそうだ。
 しかし、いくら高校時代の偏差値が高くても、やる気をなくしてへいぼんな大学へ行ったのは明白である。それでも、今はコンビニの仕事でもまじめに取り組んでいる。昔のあまさは感じられないと言って説得したらしい。
 武史は、くるみに感謝をして、新しい仕事を必死になって取り組んだ。

 事務用品の会社で働きはじめて一か月がすぎた。一日の仕事を終え、喫茶店で待ち合わせた武史とくるみ。軽食をつついて、武史の近況を報告する。
「どう、仕事は?」
「順調だよ。給料も、思ったよりもあるしね。くるみのおかげだよ、ありがとう」
「よかった。それで、お母さんは元気?」
「ああ、もうすっかりよくなったよ。今は家事だけをやってもらっているけど、退屈だって」
「ふふふ、よかった」
 そう言って、コーヒーをすするくるみは、穏やかな表情だった。
「それで、なにかお礼がしたいんだけど、なにがいい?」
 くるみは、コーヒーカップを受け皿に置くと、ゆっくりと話し始めた。
「私ね、こんど結婚するの」
 くるみはそう言って、にっこりと笑った。その笑顔は、無理に作ったものであることは武史にもわかった。
「でも、武史のことが心に引っ掛かっていたの。それで、会いに行ってみると、昔の人をバカにしたような態度はなくなって、おだやかな顔になっていた。ああ、この人は変わったんだと思って、就職のお手伝いをしたのよ」
「くるみ……」
「ねえ、結婚を祝福してくれる?」
「……結婚おめでとう、くるみ」
「ああ、これでやっとお嫁に行けるわ。まったく世話焼かせるんだから」
「すまない」
「それじゃ、私、いくね」
「ありがとう、くるみ」
 くるみは、最後ににっこりとほほ笑んだ。そして、一度も振り返らずに歩いて行った。武史は、後ろ姿を見送って、別れを惜しんだ。さようなら、俺の愛した人とつぶやいて。


 十二

 武史が事務用品の会社に勤めて、はや七年の月日が流れて、武史も三十二歳になっていた。その間に結婚もして子供もできた。妻はよくできた人で、看護師の仕事と、母の買い出しの助けをしてくれる。おかげで、武史は仕事に専念することができる。妻にとても感謝しているのだった。
 そんな折り、小さな仕事が入り、なつかしい学生街を訪れた。ところどころ、見慣れない建物が立って、道を間違えないようにするのが骨だった。それでも、無事、取引先に到着すると、注文の品をバンから下ろして、請求書を渡した。
 その後、通いなれたコンビニを訪ねてみると、ライバル店の看板に代わっていた。武史は、しばし呆然とたち尽くす。気を取り直して中に入ると、知らない人が忙しく働いていた。その人に聞いたのだが、お世話になった店長も、後輩の根岸の名前も知らなかった。武史はさみしく思い、ベーカリー芳江へ車を走らせる。
 行ってみると、まだ、ベーカリー芳江はあの場所に立っていた。うれしくなって急いで車を降りて中をのぞくと、そこには白いユニフォームを着た根岸の姿が。まさかとは思ったが、武史は店のトビラを開けずに立ち去った。顔に、やられたと言う表情がにじみ出ているが、目が笑っている。

 武史は、帰り道の信号待ちで、向田の顔を思い出そうと思い、目をつむったが、どうしても思い出せなかった。青春は、終わったんだと思うと、頬に涙がこぼれた。


(終わり)

20180523-不釣り合いな俺と彼女 40枚

 

修正2018/11/02 


 一

 今日は、やけに暑い。この北海道がまるで本州でもあるかのように、黙っていても汗が吹き出て、アスファルトには蜃気楼まで立っている。
 その暑い中、俺は苦々しい思いで車を飛ばしていた。それは、酪農をやっている父が、盆と正月に帰らないと、電話してきて怒鳴るからである。仕方なく修理工場の先輩たちに頭を下げて、盆に休みを取って実家に帰らなければならない。一番年の若い俺であるから、本当に申し訳なく思う。
 帰ってやることは決まっている。壊れた農機具の修理、その他諸々の古い家の修理。俺は自動車の整備士あって、できないと言っても聞く耳を持たない。嫌々、慣れない機械の分解やノコギリを持つことになる。
 しかし、無下にはできない。長男の俺が酪農から逃げて、弟に押し付けたのだから。それゆえ、贖罪の気持で毎年、盆と正月に実家へ帰るのである。

 六十キロの峠道を越えて、あと少しで実家に着こうとした時、赤い外車がこちらを向いて止まっているのが見えた。そのかたわらで、俺の車に気付いて懸命に手を振るひとりの女性。俺は見とれてしまって、少し行き過ぎて車を止めた。
「よかった、止まってくれて」
 女性は三十代後半のふっくらした面持ちで、とても嬉しそうに笑った。夏なのに紺色のスーツ着ていて、とても暑そうである。
「どうしましたか?」
「車を止めて風景を眺めていたら、エンジンが掛からなくなって」
「分かりました。見てみましょう」
 ボンネットを上げて故障個所を探した。どうやらオルタネーター(発電機)のベルトが切れて充電できずにバッテリーが上がったようだ。
「原因は分かりましたが、部品がないので直せません。でも、ストッキングがあれば代用できますが」
「え?」
 女性は自分の足元を眺めると、ちょっと躊躇してストッキングを脱ぎはじめた。それも俺が見ている目の前で。日焼けしていない太ももが、俺をドキリとさせて下を向いてしまった。
「これでいいですか?」
「はい、大丈夫です」
 真っ赤な顔の女性からストッキングを受け取ると、すぐにオルタネーターのプーリー(滑車)とエンジンのプーリーを、ベルトの代わりにグルグル巻いた。気のせいかもしれないが、ストッキングはぬくもりがあって手が震えたのだが。
 仮の修理は直ぐに終わった。後は、俺の車のバッテリーをブースターケーブルで繋いでスターターを廻すとエンジンは掛かった。
「ありがとうございます」
 女性は、とても嬉しそうにそう言った。たぶん、この外車はお気に入りだろう。こんなとき、俺は喜びを感じる。
「まだバッテリーが充電してないから、一時間ぐらいはエンジンを切らないでくださいね。それから町に着いたら、ちゃんと修理してください」
「あの、お名前は?」
「俺? 俺のことは気になさらずに。はい、名刺です。井出モーターズ。もしよかったら、ここで修理してください。釧路市内から電話をしてくだされば、向かいに来てくれますから」
「それで自動車に詳しいんですね。えーと、佐藤隆明さんですね。よかった。私、釧路は初めてでどこに頼んだらいいのか分からなかったんです」
 安心した面持ちの女性は、汗で頬に貼り付いた髪をかき上げた。
 この時、俺はこの女性はどれくらい待ったのだろうかと考えた。この暑い中、喉が渇いているに違いない。だが、残念ながら俺の車には、飲みかけの飲料水しかなかった。
「もし喉が渇いていたら、この道を少し行くと、飲み物の自動販売機がありますよ」
「あれ、入ってますよね?」
 そう言って、女性は俺の車の飲み物を指差した。
「あれは、俺が飲んでいた奴ですが」
「おねがい」
 よほど喉が渇いていたのか、両手を合わせてお願いされた。仕方なく、飲みかけの飲料水を渡すと、女性は喉を鳴らして飲み干した。
「ああ、生き返った」
 あまりのことに、俺は呆然としてしまったが、女性は人心地付いたように笑顔である。
「それでは、お世話になりました」
「いいえ」
 それにしても、彼女は一体こんな田舎に何か用事があったのだろうか。しかし、理由を聞ける訳はない。
 俺は女性の車が発進するのを見届けると、気もそぞろに実家へ向かった。


 二

 盆が明けると、俺は日常に戻って行った。朝七時に起きて、七時五十分にツナギを着てアパートを出る。職場の井出モーターズには、徒歩十五分。工場へ着くと盗難や破損などの異常がないか点検してから、営業時間の八時半までインスタントコーヒーを飲みながらスポーツ新聞を読むのが、楽しみである。
 ちなみに、俺の車はアパートの駐車場代がバカにならないので、ここに置いてある。某メーカーのワゴン車で、四駆と流れるようなスタイルが自慢である。
「よお、佐藤。おはよう」
「おはようございます。上田さん」
 先輩の上田さんが、ツナギを着て職場に現れた。四十になって頭とお腹を気にしている。
「佐藤はいつも早いな」
 上田さんは、そう言いながらコーヒーを入れて、俺と対面のソファーに腰掛けた。お腹を気にしている割には、砂糖を三杯も入れる。
「はい。家にいてもやることないですから」
「だから早く結婚すれって言ってるんだ。三十になってからが時間の経過が急に早くなるんだ」
「ははは」
「そうだ。盆休みに女性が訪ねて来たよ。オルタネーターのベルトとバッテリーを買ってもらった。売り上げ貢献、ご苦労さん」
「よかった、ちゃんと修理してくれて。それでベルトが切れた原因はなんですか?」
「ああ、張りが弱すぎてスリップしたのが原因だろう。ちゃんと調整したからもう大丈夫」
「有難うございます。それでバッテリーは、やっぱり過放電で痛んでいましたか?」
「そうだね、あれじゃ夜は直ぐにバッテリー上がっちゃうよ」
「お手数をお掛けして、すみませんでした、上田さん」
「それよりあの人、佐藤よりはちょっと年上だけど色っぽいな。もろ、タイプじゃないのか?」
「いやー、彼女はたぶん大学を出てバリバリ仕事をしている才女ですから、俺なんて。それに、もう結婚しているでしょう」
「結婚はしてないな、指輪してなかったから。それに、案外佐藤に惚れたかも。その証拠に、メールアドレスを渡してくれって置いて行ったよ。そら」
「どうも」
 名刺ではなく岡田芳子という名前とメールアドレスを書いただけの紙だった。俺は携帯で、ちゃんと修理してくれてよかった、と書いて送った。
 それから就業時間となり忙しく働いた。メールの着信を確認したのは昼休み。仕出し弁当を食べ終わってお茶をすすっている時だった。
『岡田芳子です。この前はありがとうございました。とても助かりました。お礼に今度食事に行きましょう。いつがいいですか?』
 この返事に困ってしまった。俺は工業高校を出てこの修理工場に勤めて今まで過ごした。それ故、大学出の女性とは縁がなかった。もっぱら高校出の女性とお付き合いしてきた。だが、俺の性格が細かいことに気が付くたちで、いつも振られる。そんな俺が大学出の女性と食事? どんな罰ゲームなのか。だから、すぐに返信した。
『岡田芳子さま。そんなお気になさらずに。気持ちだけ受け取りました。ありがとうございます』
 こう返した。だが、岡田さんは中々納得せずに、同じようなメールが三日三晩行き来した。仕舞には私が歳だからかと言われて、俺はとうとう折れて食事の約束をした。


 三

 釧路のレストランはたかが知れている。それでも失礼がないように一応スーツを借りて約束の日に職場で待っていた。皆が忙しく働く中、ひとりソファーに座っているのは、酷く居心地が悪い物である。
 手持ち無沙汰に車のカタログを眺めていると、約束の時間どおりに岡田さんはタクシーに乗って工場に現れた。服はこの前見た時と変わらず紺色のスーツを身にまとっていたが、しっかり化粧をしていた。この方がずっと色っぽくて俺はドキドキしてしまった。
「佐藤さん、お待たせしました」
 岡田さんはそう言って、事務所の窓から眺める社長たちに会釈をしてタクシーを出した。
「このスーツ、借りものなんです。変じゃないですか?」
「いいえ、ちっとも。私は、普段来ているスーツを着て来ましたが、ドレスの方がよかったかしら?」
「止めてください。よけい緊張するから」
「そうですよね。よかった」
 この時、微かに香った香水が俺の鼓動を早まらせた。
 レストランに着くと、俺は否応なしにエスコートをさせられた。慣れないのでとても緊張したが、紳士になったようで気持ちがよかった。
 岡田さんがあらかじめオーダーしたメニューは、不案内の俺には分かるはずもない。だが、味は美味かったように思う。なにせ、緊張と彼女との話に夢中になっていたので。
 話題はもっぱら俺の仕事について聞かれた。どこで身に着けたのか。どれ位でできる仕事なのか。将来の夢は。
 自分を飾ってもすぐにメッキが剥がれるので正直に答えた。不良が大勢いる工業高校で基礎を学び、二年間修理工場に勤め、二級自動車整備士の資格を取った。これは、車の整備全般を任される資格である。取るのは苦労したが、機械が好きで中学の頃からバイクを弄っていたから、いやになることはなかった。
 将来の夢はレストアの工場を作って、老後はそこで仲間たちと古い車を直すことだ。当然、利益は出る訳もなく、カツカツだろう。
「こんな話、聞いても面白くないでしょ。それよりも、俺は岡田さんの仕事の話を聞きたいな」
「私の仕事はつまらないわよ。クレーム処理だから。お客の所へ行って、ひたすら頭を下げる仕事なんだ」
 そう言って、岡田さんは「ふふふ」と笑ったが、目がなぜか泳いでいる。だが、それは思い出したくないことがあるのだろう。俺は、話題を変えた。
 その後は、映画、音楽、スポーツ観戦、などに話を広げた。思ったよりも趣味が似ているので、食べるよりも会話に夢中になった。
 だが、デザートが来ると彼女は無口になった。アイスを美味しそうにほお張る彼女は、歳よりも若く見える。俺と同じ三十歳だと言っても通用するだろう。と言っても、三十代後半は推定年齢であるが。
「今日は本当に有難うございました。いい思い出になりそうです」
「私も、こんなお店で食事するのは初めてなんです」
「またまた。岡田さんだったらお誘いも多いでしょう」
「そんなことありません」
 岡田さんは寂しそうに笑った。俺は、気になってお別れを言うことはできなかった。
「そうだ。これから俺の行きつけの店に行きませんか? ここから歩いて行ける距離です」
 岡田さんは、こくりとうなずいて、カードで支払いをすませた。
「ごちそうさまです」
「いいえ」
「さあ、こちらです」

 歩いて向かった店はちょっと分かりづらい路地裏、小さいプレートが掛かっているバー。名を『heaven』と言う。その脇の重い扉を開けると、チリンと音がする。中に入ると照明が薄嫌いので、目が慣れるまで時間が掛かる。俺は、いつも行っているので慣れたが、はじめの頃は足元ばかり見ていた。
 このバーは、とてもナンパできる雰囲気ではない。大人しく飲むのがルールみたいになっている。
「隠れ家みたいで、素敵なお店ね」
「そうでしょ」
「それにこのマルガリータ、とても美味しいわ」
「だってさ。マスター」
「有難うございます」
 マスターはそう言って、作り笑いをした。あご髭を生やして、一重の見えない目には眼鏡を掛けている。
 マスターは一度だけ俺に話したことがある。妻を交通事故で失って、その時に彼は視力を失ったのだと。元々バーテンだった彼は、慰謝料でこの店をはじめた。だから、この店は妻に守られているようで安心するのだと言う。マルガリータの作者の人生に少しだけ似てると思った。

 コップを拭くマスターを見ていた岡田さんが、ふいに口を開いた。
「マスターってあご髭をはやしていて四十ぐらいに見えるけど、本当は二十代後半かな?」
 すると、マスターは口に指を当てて、しーと言った。その瞬間、あちこちで笑いが起こる。それを聞いたマスターは、がっくりと肩を落とした。照明が暗くても、常連はみんな知っているのだ。
「若くてうらやましいわ。ねえ、マスターから見たら、私は何歳ぐらいに見えるのかしら?」
 マスターのコップを拭く手が一瞬止まった。そして、申し訳なさそうに言った。
「すみません、ご婦人。私、目が見えないので」
「え! ごめんなさい。そんな風には見えなくて」
「いいんですよ。よく言われますから」
 マスターは、よく健常者だと間違われる。それくらい、日常の動作には支障をきたさない。それでも、外を歩くときなどは、神経を使うと言う。だから、誰かと結婚すればいいと言ったのだが、ただ笑うだけだった。やはり、亡くなった奥さんを、いまだに愛しているのだろう。
「佐藤さんには、いつも助けられています。それで、ホモだって間違われて」
「それはマスターがかわいいのが悪い。これで髭を剃ったら大変なことになるから」
「そうですか?」
 話を聞いていた客は、皆うなずいた。俺は、その反応をマスターに報告すると、両手を上げて降参した。
 この店は、多くの人に守られている。俺が気にしないでもいい位に。それでも、俺は放っておけない。それは、酪農をやっている実家に置いて来た弟の代わりなのかも知れない。

「いいお店ね」
「よかった、ここに連れて来て」
「そして、あなたもね」
「え?」
 岡田さんは、俺の疑問符を笑って受け流した。
 それから、俺と岡田さんは三杯お代わりをして、タクシーに乗った。そのタクシーの中で彼女の家にどう言って上がり込もうかと考えたが、学歴がブレーキになって言い出せなかった。やはり、俺には不釣り合いな女性なのだ。
 岡田さんのアパートへ着くと、今日は楽しかった。それじゃと言って、大人しくタクシーに戻ろうとした。
「実は、実家から送って来たバースデー・ケーキがあるのよ。私ひとりでは食べきれないの」
 岡田さんはそう言って、恥ずかしそうに笑った。その言葉で俺のブレーキが外れた。
「誕生日おめでとう」
 俺は、そう言ってタクシーの料金を払った。

 この夜は、緊張してたせいか、前戯もぎこちなく、本番に至っては中折れで、散々だった。「ごめんね」と言うと、「いいのよ、誕生日を祝ってくれてありがとう」と言って抱きしめてくれた。
 ひとりの誕生日ほど、寂しいものはない。たとえ、いくら歳をとっても。

 この時、とても珍しいことに気が付いた。岡田さんの手は、しっとりと湿っているのだ。まるで、緊張しているかのように。
 彼女の話では、普通の人は緊張した時に手が汗ばむのだが、どういう訳か、彼女は常に手が湿っているのだと言う。本人は、気にしているが、そのことで身体の具合が悪いとか、なにか困ったことがある訳でもないので、極力気にしないようにしているそうだ。
 俺からしてみれば、あの湿った手を握りしめると、まるで身体が溶けあったようで幸せな気分になる。実に、不思議な体験だった。


 四

 翌朝、俺が目覚めると隣には岡田さんが眠っていた。穏やかな吐息が俺の胸に掛かってくすぐったい。
 昨夜の話では、岡田芳子三十七歳ちょうど。帯広で生まれて、札幌の大学を出てデパートに勤める。はじめは製品のバイヤーを任されたが、歳を取りクレーム処理に回された。そして今は釧路に来てその仕事を続けている。生きるって大変なのねと岡田さんは寂しそうに笑った。俺は、そんな笑顔さえ、いとしさを感じざる負えなかった。
 岡田さんはそれから少しして目覚めた。彼女は時計を見てあわてた。
「こんなにぐっすり眠ったのは久しぶりだよ。送っていけなくてごめなさいね。それじゃ、またね」と言って、あわただしく車に乗って出て行った。俺は、タクシーをひろって自分のアパートへ戻った。

 それから、俺たちは中々都合が合わなくて一か月が過ぎた。工場の食堂で、昼休みに弁当を食べてお茶をすすっている時だった。
「おい、佐藤。この前の女の人がテレビに映っているよ」
 同僚の言葉に驚いてテレビの画面を見た。それは、事件の記者会見だった。岡田さんが弁護士として、逮捕は不当だと訴え掛けている。それも、ヤクザの。
 俺は、この光景をシーンと静まり返った食堂で黙って聞いた。そのニュースが終わっても、重たい空気は変わらなかった。俺は、いたたまれなくなって席を立とうとした。
「おい、佐藤。あれは、仕事でやっているんだよ。いくら嫌でも、あれが弁護士の仕事なんだ。きっと、そう言うもんなんだ」
「上田さん、分かってますよ」
 だが、いつまでも重いしこりは拭い切れなかった。俺は、ヤクザの弁護しているよりも、弁護士として働いている才女だと言うことを気にした。偏差値五十にも満たない俺は、偏差値六十以上の大学を出て司法試験を受かっている女性には、きっとチンケに見えるだろう。
 それでも、岡田さんは俺と一緒に眠って、ぐっすり眠れたと言った。その言葉を信じたかった。

 それから半月が過ぎて、季節は秋になった。お互い時間ができて久しぶりのデートは、あのバー『heaven』で待ち合わせた。
 岡田さんは薄いオーバーを羽織り、硬い表情でバーに現れた。彼女はマルガリータをオーダーして、カウンター席からボックス席へ移動するように、俺にうながした。
「久しぶりだね。元気してた?」
「ねえ、テレビ見たでしょう?」
 岡田さんは、俺の質問には答えずに、手元を見つめそう言った。
「うん。キレイに映っていたよ」
「茶化さないで」
「ごめん……」
「私のこと、嫌いになった?」
「いや、嫌いになりはしないけど、なんだか遠い人みたいで。頭は良さそうだとは思ったけど、まさか弁護士さんとは。どこの法学部出たの?」
ガリ勉して北大。この目はコンタクトなの」
 そう言って、岡田さんは自分の目をまばたかせた。
「それでも、すごいよ」
 そのとき、マスターから声が掛かり、岡田さんはカクテルを受け取って、ひと口飲むと遠い目をして言った。
「これでも、昔は正義感に燃えていたのよ。そのお陰でいつのまにか国選弁護人の仕事しか来なくなって。窃盗の常習犯とか、ヤクザのね。あの記者会見だって……」
 岡田さんは、そう言って顔をおおった。その後に彼女の言いたかったことは、たぶん『本当はしたくなかった』だろう。
「大変な仕事なんだね。でも、そんな才女がどうして俺なんか?」
「その目よ。なんの悪意もなく優しく見つめてくれるから……。ねえ、こんな私だけど一緒にいてくれる?」
「岡田さんこそ、俺でいいのか? 偏差値五十以下だよ」
「そんなこと気にしないで。あなたもガリ勉したらきっと北大でも入れると思うわ」
「なんだか、そう思えて来た」
 そう言って、自分を励ますしかなかった。
「よーし。今夜はとことん飲みましょう」
 その夜は、軽いカクテルにはじまって、バーボン、そしてビールを飲んだ。岡田さんは酒に強いみたいで、俺は正体なしにあと一歩だった。
「岡田さん、それ位にして、タクシー呼びましょうか?」
 マスターが心配顔で、ブレーキを掛けてくれた。
「ごめんなさいね、こんなに酔って。お会計お願いします」
「有難うございます」
 俺は、岡田さんに肩を抱かれタクシーに乗った。

 その夜、俺はリミッターが外れた車のように、衝動のままに岡田さんを抱いた。弾力のある唇を楽しみ、酒で鼓動が早くなった大きな胸を両手で揉みしだき、しっとり濡れた熱いワギナの愛液を吸い、いつも湿っている手を握りしめながら、俺の熱いペニスで何度も貫いた。そして、彼女のワギナの奥深くにすべてを放出すると、俺は力尽きて眠ってしまった。

 結局、このときの俺は、酒の力を借りて、思いの丈を岡田さんにぶつけたように思う。その前は、よそ行きのセックスをしたから、うまく行かなかったのだ。言うなれば、俺がヘタレであることが証明されたことになるが、それだけ岡田さんが知的で、美しいからだと思う。俺は、理想以上の女性を手に入れて、とても幸福である。


 五

 年末。雪が強い風に吹きだまりとなって、毎日のように除雪をする季節となった。俺たちは、実家に帰らずにふたりで過ごすことに決めた。一緒になって、岡田さんのアパートの大掃除して、蕎麦を食べ、紅白を観て、除夜の鐘を聞いた。まるで、夫婦のようだと思ったが、それは言わずに飲み込んだ。
 弁護士と整備士。それは、あまりにもかけ離れている。そんなふたりが結婚して、果たして上手くやっていけるものなのか。
 しかし、今のところ、会話で違和感を覚えることはない。それでも、岡田さんの選ぶ話題が、俺のレベルに落とされているのかも知れないが。
 だが、映画を観て、同じ場面で一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に感動したのは確かだ。
 そして、セックスも非常に相性がいいみたいだ。俺の愛撫に嬌声を上げ、ペニスの抽送(ちゅうそう)でなんども失神するさまは、もはや演技ではない。もしそうなら、岡田さんはどんなAV女優よりも演技が上手いことになる。
 そんな相性がいいセックスでも、まだ子供はできないようだ。このところ、毎週のように会って彼女を抱いている。もし、四月頃まで子供ができなかったら、不妊症を疑るべきだと思うが、岡田さんの年齢を考えると、自然の摂理として受け入れるべきか。
 子供ができなくたって、上手く行っている夫婦はたくさんいると思う。いざとなったら、子供を引き取って育てればいいのだ。
 俺は、こんなことを考えながら、徐々にプロポーズへの心の準備をしていった。

 三月になって、少しずつ暖かい陽気となって来た。そんな時期になっても、俺はまだプロポーズしていなかった。なにぶん、石橋をたたいて渡る性格なので、その段になるとやり残したことに気が付いてストップしてしまう、と言うこと繰り返していた。
 そんな折、突然、従妹が遊びに来た。バスに乗って、一時間半も揺られて来たそうだ。
芽衣ちゃん、よく来たね。疲れたでしょう?」
 俺は、工場の食堂でホットココアをおごった。
「ありがとう、お兄ちゃん。わたし、そんなに疲れてないよ」
「そうか、芽衣ちゃんも高校を卒業するんだから、もう大人なんだね」
 従妹は、商業高校で調理師免許を取って、地元の給食センターに就職を決めた。中々の頑張り屋なのである。
 それにしても、分からない。卒業旅行なら友だちと行けばいいのに、なぜ俺の所へひとりで来たのか。まさかとは思うが、俺を好きだなんて言わないよな。俺はそこまで考えて、なにバカなことを妄想しているんだと、打ち消した。
「あと三時間したら、定時だから待っていてね」
 その時、奥の事務所から社長が顔を出した。
「こら、佐藤。かわいい従妹が、わざわざ遊びに来たんだ。もう帰っていいぞ。タイムカードは、定時に押しておくから」
「社長、どうもすみません」
「これで、何かうまい物でも、食べなさい」
「え、こんなに! ありがとうございます、社長」
 なんと二万円もくれた。従妹が満面の笑顔を返すと、その瞬間、食堂にいる皆が幸せの表情を浮かべた。それくらい、従妹の笑顔には、威力があるのだ。そう言う俺も、脈拍が著しく上がった。
 俺は、ロッカーに置いてあった少しホコリ臭い普段着に着替えると、従妹をワゴン車に乗せて、近くのファミレスへ向かった。
芽衣ちゃんは、なに食べたい?」
「うん。それじゃ、パンケーキにカフェオレ。それと、チョコパフェがいいな」
「なんだ、それじゃ全然余っちゃうよ」
「まさか、ステーキとか、カキだとか、カニなんかを食べれって言うんじゃないでしょうね? そんなの、地元じゃいつも食べているじゃない。それに、お昼食べてから二時間もたってないし」
「そうでした……」
「ねえ、ごはんは後にして、お兄ちゃんの部屋が見たいな」
「えー、俺の部屋なんて汚いよ。とても、芽衣ちゃんに見せられるものじゃないよ」
「それでも、いいの」
 シブシブ従妹を俺のアパートへ連れて行った。勿論、従妹を外に待たせて、必死で掃除したのだが。
「おじゃましまーす」
 従妹は、ぐるっと部屋を見渡し、深呼吸をした。
「男くさい」
 それは、そうだろう。女がこの部屋に入るのは、従妹が初めてである。なにせ六畳のワンルームなので、家具やベッドを置くと、居住スペースは極端に狭く、とても女性を招き入れることは、はばかられる。それに、エッチをするには壁が薄すぎた。
「どう、狭いだろ?」
「大丈夫だよ。わたし、ここでも平気だから」
 そう言って、従妹はオーバーを脱いだ。その下には、白いセーターを着ている。俺は、従妹の大きな胸に目が行ってしまった。そして、スリムなジーンズに包まれた形のいいお尻に、ゴクリと唾を飲み込んでしまった。
「いいよ。わたしを好きにして」
「な、なにバカなこと言ってるんだ。俺たち、従兄妹同士だぞ」
「それでも、結婚できるじゃない」
「そうだけど、血が近すぎるし、歳だって離れすぎている」
「だって、好きなんだもん」
 従妹は、目を潤ませてその言葉を吐き出すと、セーターを脱ぎ捨てた。彼女の陶器のような白い肌は、熱を帯びて赤くほてっている。
 俺は、心の内では従妹をなんども犯したが、現実には大切な妹として扱って来た。それが、ほんの数十センチ手を伸ばせば、かわいい従妹が手に入るのだ。俺の頭は芽衣のことでいっぱいになり、岡田さんのことは完全に忘れてしまった。
 その時、薄い壁の向こうから、男の笑い声がした。明らかにテレビのお笑い番組を見て笑っている声である。(隣りの人は、夜勤が多いので、午後三時頃から動き出すのだ。)
 俺は、その笑い声に現実に引き戻される。
「ねえ、壁、薄いでしょう」
「……」
 余りのことに、従妹は固まっている。それに、追い打ちを掛けるように言った。
「本当に悪い。俺、近々結婚するんだ」
 こう言うと、従妹の両目は、見る見るうちに涙であふれて、やがて声を上げて泣いた。その泣き声は、幼い頃の芽衣ちゃんだった。
「よーし、涙がやんだら、ごはん食べに行こう。そして、厚岸まで送って行くからさ」
 俺は、従妹のセーターを拾い上げて渡した。
「ぐっすん。パンケーキと、カフェオレに、チョコパフェだよ」
「うん、分かった」
「楽しみにしてたんだから、三人分ね」
「そんなに食べて、お腹壊さないか?」
「バカ。三人分はパンケーキだけに決まってるしょ」
「そうだと思った」
 従妹は、ファミレスでパンケーキを夢中で食べると、カラオケボックスへ駆け込み、アニメソングを熱唱した。そして、厚岸に向かうワゴン車の助手席で寝息を立てた。今日は一日気を張っていたのだろう。少々の振動や音では起きなかった。
 夜の十時すぎに叔父の家に着くと、俺は眠っている従妹を抱えてインターフォンを押した。余ったお金を、従妹のポケットに押し込んで。


 六

 昨日は、従妹の芽衣ちゃんを送って、帰りが遅くになってしまった。寝不足の身体をだましだまし動かしてやっと定時になって、アパートでうつらうつらとコンビニ弁当を食べていると、携帯が鳴った。出て見ると、岡田さんが深刻な声でバー『heaven』で待っていると言った。俺は、急いでコートを羽織ってタクシーをひろった。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは、マスター。バーボンを」
「かしこまりました」
 カウンターに座ると、岡田さんは俺の手を握った。いつものように湿っている手だ。
「岡田さん、どうしたの?」
「うん」
 そう返事して、岡田さんはマルガリータを口にした。なにか悪いことがあったのは電話の声から分かっていた。俺は、彼女の手を強く握り返して、これから言うことに身構えた。
「私、四月から帯広に転勤なの」
「え!」
「私の所属する事務所に、ずっと前から実家のある帯広へ移動願を出していて、その席がやっと空いたの。私、今年で三十八だしね」
 俺は、お尻に火が着くような思いで、この岡田さんの話を聞いた。まさか、従妹に心を揺らしていたことがバレたのではないのか。いや、そんな訳はない。岡田さんの主なテリトリーは、事務所と法廷、それに鉄格子の中なのだから。
 俺は、マスターが入れてくれたバーボンにも口を付けずに、オロオロするだけだった。
「だから……、お別れしましょう」
「待って。待ってよ」
 なにを言うのか、俺の頭は整理できていなかった。そして、この言葉が口の中から出た。
「行っちゃ駄目だよ。君は、俺と結婚するんだから」
 岡田さんの目から、見る見るうちに涙があふれて来た。
「嬉しい」
 俺は、声をあげて泣く岡田さんを抱きしめた。彼女の涙が、俺のコートを濡らした。涙は、なかなか止まらなかった。
 岡田さんが、やっと泣き止んで涙を拭いていると、見慣れないカクテルがふたつ、俺たちの前に置かれた。
「おめでとうございます。これは、おふたりの祝福のカクテル『永遠の愛』です。どうぞ」
 それは、生クリームの中に苺の赤が溶けていて、その上に色々なプチフルーツが乗っていた。普段なら頼まないが、今なら飲める。
「乾杯」
 そう言って、俺たちはグラスを合わせて、味わった。

 後で打ち明けてくれたのだが、四十もあとわずかになって中々プロポーズしない俺に業を煮やした岡田さんは、もしもこの時プロポーズしてくれなかったら、あきらめて実家のある帯広へ行こうと思ってたらしい。
 この話を聞いて、俺は岡田さんの決断に感謝した。俺にはとてもできないし、もしも俺に合わせていたらダラダラと年月を浪費していただろう。

 それから、すぐに結婚の準備をはじめ、岡田さんの三十八歳の誕生日に結婚式を挙げた。このとき、すでにお腹に子供がいたが、まだ、小さかったのでウエディングドレスのサイズは変えずにすんだ。
 ふと思ったのだが、俺が実家に帰ったから岡田さんと出会えた。そう考えると、父に感謝しなくてはいけない。電話が来なくても毎年訪ねて、親孝行をしようと思った。


 七

「おい芳子、起きろ。大変だ。もう八時だ!」
「え! 公彦ー!」
 そう叫びながら、芳子はあわてて子供部屋へ駆けて行った。
「なに騒いでいるの。僕は、とっくに起きてパン食べているよ」
「なんで、起こさないんだ、公彦?」
「あなた、そんなこと言っていないで、早く支度をしないと」
 妻の芳子は外車に乗ってあわただしくアパートを出た。俺は、パンをかじる暇もなく工場へ向かおうとして、息子とガールフレンドの会話を聞いてしまった。
「佐藤くん、おはよう」
「おはよう、君島さん」
「佐藤くんの家って、いつもあわただしいわね。どうして?」
「それはね、よく眠れるからだって、おかあさんが言っていたよ」
「もしかして、いまだにラブラブ?」
「はー、考えたくもない」
「でも、いいじゃない。向井さん家にみたいに離婚しなくて」
「それはそれで、大変だなー」

 小五の公彦は、これから反抗期を迎えるだろう。俺みたいにグレてしまわないことを願っている。でも、弁護士になりたいと言うのには、芳子は反対している。いずれにせよ、思ったとおりに生きて行って欲しい。
 ガンバレ、息子よ!
 そう心の中でエールを送って、俺は井出モーターズに駆けて行った。


(終わり)

20170810-実話・呉に生まれて 40枚

修正2018/10/13

※これは、父の実話です。
戦中戦後を必死で生きてきた「父」。その人生をつづります。かなり脚色していますので、信じないように。それから、話し言葉広島弁に脳内変換して読んでください。

 


 気がつくと、いつもひもじかった。三歳の私は母に手を引かれいつもこの長い坂を登っていたように思う。しかし、この坂を登り切れば美味しいお菓子や料理が腹いっぱい食べられる。そのことは、幼い私にも分かっていた。それでも、歩き疲れて母を見上げると、とても辛そうだった。私は心配になって手を強く握る。すると、母は大きなお腹をさすって笑いかけた。
 幼かった私が歩いてやっと行けるところに親戚の家はあった。どういう親戚かは分からないが、たぶん母の兄弟だと思う。その家は立派な洋館で、きれいなバラがいつもプランターいっぱいにあふれていた。そして、その親戚のおばさんは高そうな洋服を着て、きれいに化粧をして、いつもやさしくほほ笑んでいた。
「だから、僕はこの人の子供になりたい」
 そう話すと母は悲しそうに涙をためた。
「ごめんよ、ごめんよ。もう、我がまま言わないから泣かないで」
 って言った記憶がある。

 一九二九年三月一日、広島県呉市神原町の繁華街に私は生まれた。名前を、壮太と言う。兄弟は上から姉、兄、姉、そして私。みんな三つ違いで、一番上の姉とは九つちがった。
 私がもの心がつく前の二歳の時に、父は海軍の造船工場で高いところから落ちて死んだ。昔はお花や水引のお師匠さんだったそうだが、造船工場に勤めたのは収入や戦時中の人の目もあったのだろう、慣れない仕事で疲れていたのかもしれない。父の死後、わずかな遺族年金をたよりに家族六人がなんとか食いつないでいた。
 そのころ、母のお腹には赤ちゃんが宿っていた。この赤ちゃんはのちに三歳違いの弟になるのだが、彼は父の顔は遺影でしか見られない。そういう私も父との思い出がないのだが。その重たいお腹をかかえ母は親戚たちに援助を求めたのだろう。昔は父の手伝いをしていたが、造船所に勤めるころは、子供を四人もかかえてすっかり専業主婦になっていた母。父が亡くなった今となっては、手に職を持っていなかったことが悔やまれる。
 さらに悪いことに母は弟を産むと寝込むことが多くなり、やがて結核をわずらった。そのころはまだ有効な治療薬はなく絶望的な気持ちで診断を聞いただろう。結核の治療薬ストレプトマイシンが開発されるのが一九四四年のことだから。母は子供たちへの感染を恐れて、さらには安静を必要としたため、私たち子供を親戚の家にあずけた。私が小学校一年(当時は尋常小学校)のころである。


 一九三五年、小学一年の秋。街路樹が赤く色づき、落ち葉が暖かく地面を包むころ。私たち兄弟は親戚の家にひとりひとりばらばらにあずけられた。本当は兄弟五人一緒なのがいいのだが、そんなにたくさん他人の子供をあずかってもらうには無理がある。三歳、六歳、九歳、十二歳の子供は皆違う親戚の家へと、そして十五歳の長姉はすでに働きに出ていた。私たちは心細くって去ってゆく兄弟たちをいつまでも目で追った。
「おねえちゃん」
「壮太。元気でね」
 いくら泣いたって私の引き取り手は、手を離さない。そんなことは、小一の私にも分かっている。ただ、頭とは反対に私の身体は長女に助けを求めていた。
 ところで長女の仕事というのがちょっと変わっている。当時では珍しくビリヤード場で働いていたと聞く。当時の私には外国人のように思えた。(もしも、このとき長女が私を引き取っていたらと考えたが、残念ながら長女は十年後、結核に掛かって亡くなってしまう。)
 最初に私があずけられたのは母方の兄、伯父さんの家。その家は庭に植えられたカエデよりも大きな家で、私よりも少し年上の女の子ばかりが三人いて、男兄弟がいなかった。そのお姉さんたちは初めて見る従弟に興味を示して私をいじってきた。
「ねえ、壮太。あなたも、おちんちん付いているの?」
 そう言って、お姉さんたちは私を裸にして、観察した。いくら、私が嫌がっても三人の力にはかなわなかった。私は、目をつむってこの屈辱に耐えた。その他、女の子の服を着せられもした。とにかく私はいいオモチャだった。その悪戯のお礼かも知れないが、私ははじめて腹いっぱいにごはんを食べた。とても幸せだった。
 意外に住みごこちがよかった家だが、二年を待たずに違う家に移された。残念であったが、たぶん女の子のいたずらがバレてしまったのだろう。次の家はこじんまりとした一階建ての家で、叔母さんたちは優しかったが、ふたりの従姉弟たちが意地悪だった。私のふで箱や弁当箱をどこかに隠して叔母さんの心証を悪くした。私はその家では従姉弟たちの居場所を脅かす侵略者に見えたのだろう。そのことはすぐに叔母さんたちの知るところとなり、まもなく私は違う家に移される。別れ際、叔母さんは申し訳ないと言って、私に小学生には少なくないお金をくれた。
 他の家も似たようなもので、私はいじめられた。中には、叔母さんに意地悪されることもあった。おかげでその頃の私の太ももはいつも赤く腫れあがっていた。

 一九四〇年。小学校五年の時に父方の祖父の家に厄介になった。その家は瓦ぶきの一階建て古い建物で、すでに隠居を決め込んでいた祖父は私にはあまり興味を示さなかった。今にして思えば息子の嫁の手前、かわいがっているようには見せなかったのだろう。
「壮太、ごめんな。俺が現役だったら……」
 そうすまなそうに言って、祖父は時々こっそりとお菓子をくれたから。
 この家には小学校を卒業するまでいたが、私はわりあい平穏な時を送った。それでも、いつもひもじかった。私は近所にある客席が五〇にも満たない映画館で映画を盗み見て空腹をまぎわらせていた。
 そんなある日、映画館の館長に声を掛けられる。
「おい、坊主。駄賃あげるから、アルバイトしないか?」
「僕にも、できる仕事ですか?」
「なーに、ちょっと走ってフィルムを交換するだけだよ。坊主、呉はあちこちに行ったことあるんだろう?」
「はい、もう四軒をたらい回しになっていますから、詳しいです」
「じゃ、決まりね」
「ありがとうございます!」
 アルバイトとは、映画館の間でフィルムの交換をするのだが、その運び屋をやってみないかと言うことだ。足にはいささか自信があった私は、この申し出にすぐに飛びついた。
 次の日の学校が終わった時間から、私のはじめてのアルバイトがはじまった。私は映写の終わったフィルムが映写機から巻き取られるのを待ってブリキのフィルムケースに入れ、それを大事に懐へかかえ走った。身体は小さかったが、これでも小学校一の健脚だ。私は大人たちの間を風のように走って、提携している映画館へ着くとフィルムを渡して、代わりにまた違うフィルムを手に持って元いた映画館まで走った。
 当時は、私のような子供がこのようなアルバイトをよくしていた。今思えばわずかな駄賃でアルバイトをしてた。きっと、安くすまそうと思って私をこき使ったのだろうが、それでも小学生の私には大金だった。そのお金でお菓子やまんじゅうなどを買って空腹を満たした。
 そのうち、私は映写機をあつかうことになる。見よう見まねでフィルムをセットして回すだけで、館長にとてもほめられた記憶がある。好きな映画もどうどうと見れて幸せだった。あのころ小学生でフィルムを回していたのは私ぐらいだったろう。
 そして一番記憶に残っているのは、少し重たくなったアルバイト代ではじめて食堂でカレーライスを食べたことだ。とても美味かった。

 小学校もあとわずかで卒業となる時(小学校の最後の一年は尋常小学校六年から国民学校初等科六年に名前が変わった)、先生は私に新聞配達をやってみないかとたずねてきた。中学校(当時は国民学校高等科)に行きながら稼げるし、他人の家できゅうくつに生活する必要もない。そう言って私にすすめた。
 この時、私ははじめて母を探して、最初に私がお世話になった母のお兄さんを訪ねた。聞いてみると彼は知っていた。母は広島の診療所にいると。
 後日、路線バスに乗って広島の山奥にある日当たりのよい診療所へたずねると、母はベッドでまるまって寝ていた。私が声をかけると、
「どちら様でしょう?」と言って寝巻の袖で口をおおった。
「僕だよ、壮太だよ」と答えると、とたんに涙を流して、
「ごめんね、ごめんね」と言って、頭をベッドに擦り付けた。
「このとおり、僕は元気に生きてる」とおどけて言うと、
「親はいなくても、子は育つと言うものね」と言って母は泣き笑いした。
 かあさん。私には欠けているものがある。それは親の愛情だ。だから私はいつも自分に自信を持てずにどこかおどおどしている。それを補えるのはかあさん。あなただけだ。
 私はそのことを先生に聞いた。だから自分のために母と一緒に住もうと決めたのだ。悪いが弟にはゆずれない。そして兄は、建築会社の寮に入ることになっているので、この役は私のものだ。
 それから小学校を卒業した私は、先生のつてで呉市東畑町にある日当たりのよい一軒家を格安で借りて、母と一緒に住みはじめた。結核菌は紫外線に弱いと聞いたので、日当たりのよい家を世話してもらったのだ。また、感染を恐れる人がいるようだが、患者のセキやタンに気をつければ感染することはないと医者に教えられた。私と母は、新聞配達の給料と、わずかばかりの遺族年金で暮らしはじめた。一九四二年四月。中学一年の春のことである。

 ところで、映画館のアルバイトは残念ながらやめた。場所も遠いし夕刊も配れないから。事情を話してやめると言うと、最後の日、館長は私に餞別(せんべつ)をくれた。家に帰って開けてみると、なんと五十銭札が十枚も入ってた。今のお金で四万円近くはする。
 この時、はじめて人のありがたみを知った。小学校の先生と映画館の館長にはたいへんお世話になった。この場を借りて言いたい。ありがとうと。


 一九四二年秋。おだやかな日が続いた。新聞によると日本はアメリカを破竹の勢いで撃破していると言う。まだ十三歳の自分には他人事のように思えた。朝夕と新聞を配り、昼間は中学校へ行って、夜には母の作ったごはんを美味しくいただいた。本当に幸せだった。
 しかし、母のかげんが思わしくなくて、間もなく私が料理を作るようになる。味は母が見てくれるので安心なのだが、母は少し食べただけでもうお腹いっぱいだと言う。もしかして、私にたくさん食べさせようとしているのかもしれない。母こそ栄養をつけなくてはいけないのに。

 一九四四年春。私は十五歳で中学を二年で終了すると山沿いにある大きなドリル工場に勤めた。軍事用の部品をけずったりする、いわゆる軍需工場である。私はこの時はじめてちゃんとした給料をもらって働いた(この会社で働いた記録は残されていて、のちに割合高額な年金が支払われた)。その給料で闇市から食料を買ってきて、母に食べてもらった。私は会社の食堂でたらふくて食べていると嘘をついて。
 ある朝、新聞に結核の特効薬ストレプトマイシンが開発されたと載っていた。しかし、この物資の不足している時代では、いつ手に入るのか分からない。非常に悔しい。母はそれでも希望がわいたと言って少し元気になった。もしも、医者に薬が降りてきたら、まっさきに治療してもらおう。(だが、当時ストレプトマイシンはとても高価で、私の給料では払えなかっただろう。)

 一九四五年三月一九日。日本は優勢だと新聞は知らせていたが、ついにここ呉も空襲にみまわれた。この時から、たびたび軍事工場が被害に合うことになるのだが、あの日だけは違った。
 一九四五年七月一日。夜空は雲一つなく、満月がまぶしいほど地上を明るく照らしていた。私はそれをしばらく眺めて、眠りについたのを覚えている。
 どれくらいたった時だろうか、どこからともなくヒューと音がして、次の瞬間破裂音がして爆風がガラス窓を襲った。私はあわてて起き上がると母を起こして急いで外へ出た。その途端、次々と降りそそぐ焼夷弾(しょういだん)に足がすくんだ。だが、ここにいてはいずれやられると思い、勇気を振りしぼって母の手を取り走り出した。
 必死で走って無事防空壕へたどり着くことができてほっと安心したのだが、
「この防空壕は危ない。けれど、私はもう走れないから、壮太は裏山に向かって逃げて」
 母は、そう言ったのだ。だが、母を置いては行けない、そう思い一緒にいようと思ったが、母は
「早く逃げて!」
 そう叫んで、私の身体を防空壕の外へ押し出した。私は泣きそうになりながら、
「きっと、大丈夫だよ。後で迎えに来るから」
 そう言って、ひとりで裏山に向かって走り出した。その後、何度も危ない思いをしたが、私は後を振り向かなかった。
 無我夢中で走った末に、なんとか生きて裏山にたどり着いた私は、振り返って背筋が凍る。あたり一面火の海。まさにその言葉が当てはまった。だが、母はちゃんと防空壕の中にいる。絶対に大丈夫だと自分に言い聞かせて震える膝を手で必死に抑えた。それからも、焼夷弾はまるで雨のようにひっきりなしに降りそそいだ。

 ほんとうに長かった。七月二日の明け方にようやく空襲は終わった。私は喉も乾ききっていたのに、全力で母のいる防空壕に走った。心臓は今にも爆発するように激しく鼓動を繰り返していた。だが、私の足は走ることをやめなかった。
 変わり果てた街並みに防空壕がどこなのか探し回る。そして、もう日が明けてからだいぶたったころ、防空壕を見つけた。急いでかけ寄ると中はからだった。私はほっとして防空壕を出たが、人に呼びとめられる。
「君、防空壕は皆全滅だよ。遺体は小学校のグランドで荼毘(だび)に伏されるから、行って遺体の確認をしなさい」
 こう言われた。
 私は嗚咽(おえつ)しながら小学校への道を歩いた。
 私が殺したんだ。私が母をここへ置き去りにしないで一緒に逃げていればきっと母は死なずにすんだ。きっとそうだ。私が殺したんだ。
 その後悔は今でもある。たとえ母と一緒に死んでもそれは幸せなことだと思った。
 一方で、母に命を託されたと言う思いがある。母にもらったこの命を、大切にしなくては、そう思った。

 私は、重い足取りで小学校へ着くと、母を探した。そして、校庭のすみで、小さくまるまっている母を見つける。焼夷弾で蒸し焼きにされたのだろう。遺体は損傷が少なくきれいなものだったが、死に顔は苦しみに歪んでいた。
 泣き疲れて呆然として火葬を待っていると、ドリル工場の人たちが来て、私になぐさめの言葉をかけて棺桶を用意してくれた。どうせまとめて燃やされて誰の骨か分からなくなるのに。だが、その言葉を飲み込んで素直に好意を受けた。
 母はたくさんの遺体と一緒に燃やされた。火柱が黒い煙をはき、夏の空に舞い上がっていく。私は手を合わせて母を見送った。
 後日、母の遺骨は父のお墓に一緒に収めた。しかし、誰の骨であったかは分かりようがない。

 一九四五年八月五日、日曜日。私は母の死を引きずって落ち込んでいたので、ドリル工場の先輩たちが、気分転換にと広島へ連れ出してくれたのである。
 広島駅に着いて電車を降りると、空からビラが舞い落ちてきた。
「なんだ、こりゃ?」
「ああ、ここ一か月くらい毎日降って来るってさ」
 拾って読んでみると、どうやらそれはアメリカ軍がバラまいているもので、すぐに広島より撤退せよと言う内容だった。私は背筋が寒くなり空を見上げる。ところどころに雲があるだけの真夏の空だった。
「おい、なにやってんだ。いくぞ」
 と先輩たちが、私の背中を押して駅から町中へ繰り出して行く。
 なにをして遊んだのかよく覚えていない。その日は一日中、サイレンの音にビクビクしていたから。そして翌日、あの悲劇が起こる。

 一九四五年八月六日、月曜日、午前八時十五分。広島原爆。
 私は、ドリル工場の窓から、もくもくと天に登る雲を呆然と見ていた。そして、力なくつぶやいた。
アメリカは一体なにを考えているんだ。日本人を皆殺しにするつもりなのか。そんなに日本人が憎いのか。もうやめてくれよ。お願いだ。お願いだ」
 私は、あの雲を決して忘れない。

 そのあと、私は広島へは助けには行かなかった。いち早く行ったものが、水をあげると皆安心したのか死んでしまうから無駄だと言ったからだ。そして、爆弾が落ちた直後に行ったものは、黒い雨に降られて体調をくずし、病院に運ばれたと聞く。
 まったく、アメリカはとんでもないものを作ってしまった。もしかして、私たちを同じ人間だとは思っていないではないかと疑ってしまう。そう言う私たちもアメリカ人を鬼畜米英と言っているのだが。


 一九四五年八月十五日。私は汗を拭きつつドリル工場で玉音放送を聞く。なにを言っているか分からなかったが、お偉いさんの話によると、日本は戦争に負けたと言うのだ。
 その時、怒りがわき起こった。絶対日本は負けないと言ってたじゃないか! それを信じて僕たちは耐えてきたのに、今更負けたとはなんだ! かあさんを返してくれ!
 その言葉は言わずに心の中にしまった。言ったところで、母は帰ってこないのだから。その日の内に、一年と四か月勤めたドリル工場の退職の判を押した。

 それから私は兄に仕事の相談をするために訪ねた。兄は、広島の大きな建築会社で大工として働いていが、二年前から海軍の輸送船で働かせられていた。今回終戦となってすぐに元いた建築会社へ戻ってきたのだと聞かされた。
 兄は私が仕事を探してると言うと、そくざに答えた。
「だったら内で働かないか。なにせ空襲で焼け野が原になって復興には大工の数が圧倒的にたりない」
 こうして十六歳の私は、大工の見習いになった。
 大工の朝は早い。寮で早朝にたたき起こされて、飯を急いで食って、手早く支度を整えたら、すぐに作業に取りかかる。はじめはひたすら清掃や運搬などの雑務。そしてしばらくしてから、道具の手入れをやらせてもらえるのだ。家を建てるまで修行するには、十年は必要とされていた。当時十六歳の私が二十六歳までかかる。それでも行くところがないから雇ってもらった。
 まだ残暑厳しい中、汗だくで働きはじめた私だが、毎日のようにやらされる重たい建築資材の運搬にすぐに腰を痛めた。なにせ当時は百六十センチにも満たない痩せの小男だったので、数か月で大工をあきらめて船に乗ることになる。

 一九四五年秋。運よく知り合いの紹介で漁船に乗った私は、心おどっていた。対馬の漁場から肥えたサバを買って、九州の市場へ運んで売りさばく仕事だ。泳ぎには自信があるし、船に乗ってあちこちの港へ行けるのだ。どうしたって笑顔になる。
 だが、出航してすぐに甘い考えだと気づく。私は船酔いをして、ゲーゲーと吐いた。瀬戸内海でも吐いたが、関門海峡を出ても吐き続けた。これも船に乗ったことがなかったからだと思う。
 しかし、対馬に近づくとしだいに収まってきた。船長が笑いながら言った。
「お、船酔いにも、だいぶ慣れたか? よし、じゃ仕事してもらおうか」
 私は調理場へ連れていかれて、なにか作ってみろと言われた。私は料理には自信がある。なにせ、十三で母と住むようになってはじめは母が料理を作っていたが、病気が思わしくなくて私が作っていた。味は母が見てくれたので母ゆずりの味である。
 まず私は材料になにがあるのか確認すると、調理方法が簡単なカレーライスを作りはじめた。イモやニンジン、玉ねぎを大きめに切って菜種油でいため、水を入れてグツグツ煮る。ほどよく火がとおったらルーを入れるのだが、当時ルーはトロミがなかったので、茹でたイモをつぶしてよく混ぜる。そして、かくし味にミルクとしょう油を少々溶け込ませる。中火で長めに温めたら皿にもって、さあどうぞと言った。
 船長がひと口、そのカレーを食べた時の驚きに満ちた顔は今でも忘れられない。船長は相好をくずして合格だと言った。こうして、私は漁船の料理当番となった。

 普段の漁船の仕事は割り合い楽だった。サバを大量に乗せた船に横付けして、中からサバをクレーンでつるして、こちらの船底の氷の中に入れる作業だが、私たちはクレーンを手で誘導して船底の穴に落としたり、こぼれた魚を船底に投げ入れたりするだけの簡単なものだった。
 それ以外は暇を持てあましてデッキをブラシで掃除したりしていたが、料理を任された私は毎日を充実して過ごすことができた。人のために料理を作ることが、こんなに幸せなことだとは、十六年間生きてきてはじめて知った。それまでは、病気の母のために料理を作っていたが、満足に食べてくれなかったので分からなかった。この仕事もありかなと漠然と思った。

 そして、船が九州の市場が近づくと、途端に忙しくなった。市場に着く直前に、急いでサバを箱詰めにして細かい氷をつめる作業をした。そうすると、市場に着くとすぐさま、生きのいいサバがセリにかけられるのだ。
 その市場だが、一番高値で買ってくれるところを選んだ。それは、福岡県小倉、福岡県戸畑、佐賀県呼子(よぶこ)、長崎県若松、長崎県佐世保など、いろんな港へサバを卸した。
 ひと仕事おえると、私たちは他の漁師と同じように陸に上がって有り金を使い果たした。明日には海で死んでしまうかもしれないので、この世にお金を残さないためだ。港々に女を作り、なんてことはできなかったが、それなりに楽しんだ。

 一九五〇年ころ。日本近海の漁獲高が大きく落ち込んだ。戦時中は、燃料がなくて漁船を出せずに、おまけに漁師は皆兵隊に取られていたから、漁業どころでなかった。それが、戦争が終わると、食料確保のために皆こぞって魚を取ったので、資源がすぐに枯渇したのである。
 困った私たちは大きな声では言えないことをした。沖縄県では建築資材が不足しているという話を漁師仲間から聞いたので、材木を福岡県の新宮で買い込み、船底にかくして沖縄まで運搬し、高値で売ったのだ。
 分け前をずいぶんもらってその時は豪遊してしまった。本当にいいところだ沖縄は。飯はうまいし、女は情が深いし。思わずここに住みたくなったが、当時はアメリカ領でそんなことはできなかったのである。
 ところで、アメリカと言えば、一度アメリカ軍の巡視艇に追われて沖縄から実に二千キロへだてた南鳥島近くまで逃げたことがある。沖縄からサトウキビを積んで帰って来る時だった。突然サイレンがなって、
「その船止まりなさい」
 と言われた。そう言われて止まるものなどいない。
「逃げろー!」
 と言って、私たちは一目散に逃げだした。サトウキビをすてて船を軽くしながら。巡視艇はなかなか追うのをやめない。そして南鳥島あたりに来て、ようやく追うのをあきらめたのだ。なんで南鳥島なんかまで逃げたのかと言うと、もしも港にでも逃げ込んだらすぐに捕まってしまうからだ。
「やっと、あきらめた。まったく、しつこいよ」
 私たちは、ほっとして脱力した。
 私たちが逃げおおせたのも、当時では高性能な日本製のディーゼルエンジンを積んでいたからだろう。日本の技術力はやっぱり素晴らしい。確か○ンマー製だった気がする。
 しかし、安心したのもつかのま。エンジンが突然止まった。
「大変だ。エンジンが掛からない」
「なに? そんな馬鹿な」
 船長が、いくらスターターキーを押しても、エンジンは掛からなかった。
「駄目だ。修理しなくちゃいけない」
 全員青ざめた。一応、修理道具は積んでいるが、もしも重要部品が壊れていたらどうしようもない。私たちは、天に祈る気持ちで船長の修理の成功を祈った。だが、中々修理は終わらない。その間に、じわじわと減る飲み水。そして、船は島からじわじわと離れて行った。
 何日たったときだろう。皆半分あきらめて遺書を書いていた頃、突然、エンジンが再び火を噴いた。
「掛ったぞ!」
「やったー! 船長」
 涙目でそう言って、私たちは船長と抱き合って喜んだ。もしこのまま漂流していたら船の上で干(ひ)からびていただろうから。私たちは、近くの島に上陸して、水と食料を調達した。そして、九州の港までエンジンをいたわりながら船を走らせた。

 おもしろおかしく月日をかさねて、一九五二年の春。沖縄県に材木をおろして帰って来る時だった。たぶん、台風だったと思うが、その日は朝から大しけで、私はひさしぶりに気持ち悪くなって甲板にあがってゲーゲーと吐いてた。
 その時、船が大きく傾いて、私は海に投げ出されてしまう。無我夢中でもがいて海の上にようやく顔を出したら、そこは船の反対側だった。どうやら一度海に深く沈んで、その間に船の下をくぐったらしい。操舵室で見ていた船長が投げたロープをつかんで、なんとか甲板に這い上がことができた。
「よかった」
 と、ほっとした顔の船長にお礼を言って、私は恐怖と寒さでガタガタ震える身体で船員室へ入る。とっくに吐き気はおさまっていた。
 私は毛布で身体を温めながら思った。もしも、落ちる場所が船の反対側だったら潮に流されて、この大しけの中、きっと見つかりはしなかっただろう。私は運がよかったんだ。そして、この幸運が続く保証はない。船を降りよう。そう決意した。

 私は九州の港へ着くと、皆にお別れを言った。
「七年間も僕を雇ってくれて、ありがとうございます。船長たちのことは、きっと忘れません。さようなら」
 泣くものはさすがにいなかったが、皆しんみりしてしまった。そんな中、船長が声を上げる。
「餞別だ。取っておきな」
 渡された封筒には、いつもよりも倍のお金が入っていた。
「よかったな。それで、由布院でも行けよ」
 と仲間は口々に言う。それで私の心は決まった。いざ、由布院へ!


 一九五二年夏。セミがうるさく泣いてかき氷が恋しくなるころ、私は大分県由布院の近くに住んでる友人と、熱気むんむんの温泉街へ繰り出した。
 だがそこは、朝鮮戦争に駆り出された米兵がしばし骨を休める場所だった。私は奴らを憎み続けていたが、わざわざ知らない地へ来て命を掛けて戦争をしなければならない彼らの境遇に同情して、憎い気持ちはすぐに失せた。
 ゆったりと、友人と私は湯治を楽しんだが、すぐに所持金は底を尽き、ふたりして炭焼きをして小銭を稼いだ。伐採する木は、どこかの谷地に切りに行ったこともあったし、所有者不明の林へ忍び込んで伐採したこともあった。そして、炭窯で炭を焼いて、赤く熱を帯びたままの状態で、由布院の温泉旅館へ卸すのである。
 夏になぜ炭が必要なんだと思うだろうが、調理に使うのだ。そうして、小銭がたまったらまた由布院の温泉街へ遊びに行く。そんなことを一年近くしていた。

 そんなある日、連絡を取っていた広島の兄から手紙が来た。なんでも、今北海道へ行けば、ただで土地が手に入る。だから、一緒に北海道へ行こうと言う内容だった。私は、すぐに友人に別れを告げると、広島の兄の下へ出発した。
 ここで、なぜ土地が手に入ると言うだけで、そんな知らない土地へ、おまけに熊が出る寒冷地へすぐに行くことにしたのかというと、それは私たち兄弟が親のいなくて、引き継ぐ財産や土地もない根無し草だという境遇からだったかもしれない。私たちは、強烈に自分の土地というものを渇望したのだ。
 広島へ着いた私は驚いてしまった。なんと、兄は知らぬ間に結婚して、おまけに子供までいたのだ。
「どうだ、驚いたろう?」
 そう言って、兄は誇らしげに笑った。
 その時、私も結婚して子供がほしいと強烈に思った。その日その日をおもしろおかしく生きてきた私には、初めてのことだった。そのためには、まず自分が確かな財産を持っている方がいいに決まっている。新たに北海道行きを決意するのだった。

 北海道行きには、兄家族と私、それに弟が加わった。私たちは広島から汽車に乗り大阪、名古屋、東京を通り過ぎて、一路北海道へ向かった。
 その途中、本州と北海道に間にある津軽海峡を渡るのには青函連絡船を使うのだが、漁船の揺れとは違って随分と快適だったのを覚えている。私たちはその連絡船の三等客室で、約四時間足を延ばして眠った。経験者は分かるだろうが、それまでは汽車の座席に長い時間座っていたから、足を伸ばして伸びを打つのがこの上ない快感なのを。
 その翌年、台風に合って青函連絡船が沈み、多大な犠牲者をだしたことは、今でも鮮明に覚えている。そのため、青函トンネルができたのである。
 北海道の函館に上陸した時は、天候が晴れで痛いほど日差しが降りそそいでいた。まるで私たちを歓迎しているようで勢い勇んで汽車に乗り込んだ。それから札幌、旭川、釧路と経由して、ついに目的地、西春別に着いた。北海道東部のわりと内陸に入ったところである。

 霧に包まれた駅に降り立って周りを目を凝らして見てみると、畑に黄色い作物(のちに菜種だと知る)が実っており、随分と開けているようだ。私たちは、安堵してまず役場へ行って土地を貰おうとした。
「え! 結婚してないと土地をもらえないって?」
「だから、ここに書かれているでしょう。新聞の広告にもそう書いていました」
「兄貴。本当かい?」
「いや、俺はそんな文は見てない」
「ほら、これが新聞の募集広告です」
 確かに、ただで入植できるのは妻帯者に限られると書かれてあった。それは独身者だと、もらった土地をすぐに売ってしまって逃げることが、おうおうにしてあるからだと言う。
(なぜ、国が北海道への入植を推進したかと言うと、それは終戦後、外地から帰って来た帰国者が過多で、治安も悪く、政府は悩んでいたからである。だから、北海道の未開発の土地をただで分け与えて、なんとか開発してもらおうとしたのだ。また、ソビエト連邦の脅威に対して、日本が実効支配しているんだぞと言うことを示したかったこともある。)
 これには私と弟は参ってしまった。兄は奥さんと子供を連れてきたので土地が貰えるが、ひとり身の私と弟は土地が貰えないのだ。よく新聞を読んでなかった兄はすまないと言ったが、確かめなかった私たちにも落ち度ある。仕方なく、私と弟は、兄の入植した家に居候をしてこれからのことを考えた。
 まず、呉へ帰ろうにも所持金は旅費でほとんど使い果たしてしまった。それに、呉に帰ってもどうせ根無し草の生活になることは目に見えている。それなら、かみさんができるまでなにか仕事をしようということになった。それで、兄は開拓に精を出せばいいのだが、いかんせん農業を全くしたことがなく、開墾も作物も作ることもできなかった。仕方なく、私たち三人は当時開拓者の家などを作っていた大工の親方にお世話になった。

 そうして、私たちは家や納屋や倉庫などを作って回って、実に四年の歳月が流れていた。ある日、農家の納屋を作っている時だった。ひとりの二十歳ぐらいの女がお茶を持ってきた。仲間たちは色めき立ち、女にちょっかいを出している。何分、皆このかわいい女をどうにかして手に入れよと必死だった。私は、それを遠巻きに見ていた。確かに嫁さんは欲しいが、私は由布院などの女遊びで女には慣れていたので、それほどがっついてはいなかった。それが気に入ったのか、その女の父親から訪問を受ける。
「ぜひ、内の娘を嫁に貰ってはくれないか」
「え! 一度も話したことがないのに?」
「娘が、寡黙なあなたのことを気に入ったと言うので」
 そう言って、女の父親は頭を下げた。
 これには、さすがの私も喜んだ。これで、やっと土地が貰えるのだ。私はただちに羽織袴で挨拶に行って女と祝言を挙げた。その翌日、役場に婚姻届けを出したその直後に、土地を貰う手続きをしたのである。
 あとで知ったのだが、この女は満州国に開拓に入った父の下で育った、生粋の農家の娘だったのだ。

 それからは、妻の指導の下、開墾をして、畑を耕して、さまざな作物を作った。菜種(黄色い花を持つ、なたね油の素。天ぷらによい)、蕎麦、大豆(モヤシ、枝豆、みそ、しょう油、豆腐、納豆などが作られる)、ビート(別名テンサイ。砂糖の原料。また、搾りかすは家畜の飼料に使われる)、などなど。
 確かに蕎麦は美味かったが、どの作物も思ったほど利益が得られず、ほとほと困っていた。それはそうだろう。夏でも多くの日数霧に包まれる気候。そのため、日照時間が短く、寒々とした気温。これでは、どんな作物だって満足に育ちはしない。私たちは、明日の食べ物にも困るように、貧困にあえいでいた。
 そんな折、妻の父親が酪農をはじめて、どうにか軌道に乗ったと言う。牧草はこの冷涼な気候でもすくすくと育つかららしい。話し合った末に、私たちも酪農に挑戦しようと、義父からメスの子牛をゆずり受けた。名前はハナコ。このハナコは大きくなってたくさんの乳を出す。やがて、ハナコの子供が順調に増えていき、どうにか経営が軌道に乗って、二十年ほどで乳牛を八十頭かかえた。その間、牧草地もブルトーザーを頼んで開墾したから一気に八十ヘクタールほどまで広がった。もっとも、土地面積に対する利益率は著しく低いのだが、なんの使い道もなかったこの大地を有効に使ったのだからいいではないだろか。
 正直、もしも妻と出会えなかったらこの成功はなかっただろう。だから、妻にはとても感謝している。ありがとう、徳子。
 一方、兄は農業をあきらめて、広島へ帰って大工を定年までやった。弟も、農業をあきらめて、夕張へ行って炭鉱夫として定年まで勤めた。不遇の幼少期を過ごした私たちとしては、それなりにいい人生を過ごしたように思う。

 そして今、妻と弟が亡くなってひさしいが、私と兄は八十八歳と九十四歳で、まだ元気に生きている。その生命力は研究にあたいすると誰かが言った。それはきっと、父と母が私たちの分まで長生きしろと言っているのだろう。だから、命の続く限り私たち兄弟は、生きる。


二〇一七年 壮太ここに記す。

(終わり)

20170420-紅い唇の夜来香(いえらいしゃん) 43枚

修正2018/09/18


 あれは、確か一九八三年五月だったように思う。千葉県の片田舎にあるM工科大学の入学式をすませ授業にもどうにか慣れたころ、僕は彼女と出会った。
 学食の食券売り場で、その女はなかなかメニューが決まらないで、長い時間かかっていた。僕はイライラして待っていたが、思わず口に出てしまった。

「早くしろよ」
 小さい声だったが、それに反応して振り向く彼女。しかし、なぜか笑顔で聞いて来た。
「あなた、カルボナーラとペペロンチーノ、どちらがいいか?」

 彼女は、唇がやけに紅く映っていた。フワッと優しそうな顔をして、髪はショートカットで肩口まで揃えて、柔らかい色のワンピースを上手に着こなしている姿は、上品ですこぶる美人なのだが、言葉から明らかに中国人と分かる。中国人は、僕らに評判がよくない。相手のことを考えるだとか、相手の考えを尊重するだとかしないからだ。そして、この中国人も今の言動から、そのぶるいに入る。

 だが、今はどちらの料理が美味いかと言う話だ。僕の口は、嫌悪感に反して自動的に答えていた。
「僕なら、だんぜんペペロンチーノだね。それに、カフェオレを付けるよ。あくまで僕個人の意見だけど」
「謝謝(シェイシェイ)」
「どういたしまして」

 だが、その紅い唇の中国人はカルボナーラとカフェラテの食券を買った。きっと、僕がまずい方をすすめると思ったのだろう。本当にペペロンチーノがとても美味しのだが、カルボナーラだってそこそこ美味い。だから、彼女の選択に文句は言わなかった。そして、僕はペペロンチーノとカフェオレの食券を買って、カウンターで食券と引き換えに料理を受け取って、テーブルへ着いた。

 ひと口、くちに運んで思う。やはり、この学食のペペロンチーノは絶品である。ニンニクと唐辛子がほどよく焼けて食欲をそそり、添えられたトマトとナスのマリネが清涼感を感じさせてくれる。そして、ミルクたっぷりのカフェオレが一日講義で疲労した胃に優しい(本当は、代返を頼んで、講義をサボったのだが)。僕は、これだけで一週間の内六日間は持つ。残り一日は海軍と同じ土曜日にカレーを食べることに決めている。それが、亡くなった祖父の約束だから(なぜなら、カレーは脚気に効くから)。僕は、日が沈んで薄暗くなった中庭を眺めながら、ペペロンチーノに舌づつみを打った。

「ちょっと、いいか?」
 そう言うと、先ほどの中国人が、僕の皿からひとホーク奪うと紅い口に入れた。僕は、その一瞬のできごとを、スローモーションのように目に鮮明に焼き付ける。
「ん! このペペロンチーノ、とても美味しいよ。あなた、いい人ね。私がなかなか決められなくってあなたをイラつかせたのに、本当に美味しい方をすすめてくれるなんて」

 そう言って僕の背中を叩くと、彼女は隣の席にうつって来て残りのペペロンチーノを勢いよく食べている。僕は、彼女のカルボナーラを食べるしかなかった。呆気にとられ見ていたが、彼女は本当に美味しそうに食べる。CMに出てくる某タレントのように。
 そして、全部を食べ終えると名前を聞いて来た。僕が工業化学科一年の永井(ながい)だと答えると、私も同じだと言って自分の名を言った。夜来香(いえらいしゃん)と……。この名は、夜に強い香りをはなつ花を持つ植物の名前である。そして、日中戦争当時の李香蘭(り・こうらん)、日本語名山口淑子(よしこ)の歌のタイトルである。僕は、謎めいた出会いを感じるよりも、面倒くさい女だなと思い、少しイラっとした。

 この中国人はカフェラテを飲み終えると「謝謝」と言って、僕の手をつかみ離さない。これには、焦った。さすがに国際問題になると思って彼女に言った。

「まさか、僕のことが好きになったんじゃ?」
「対対(ドイドイ)」
 これは、うんと言う意味らしい。あんなことくらいでバカかと思ったが、一応留学生の学力は学内上位十パーセントに入っているらしいから、単に常識がズレているのかも。
「それで、まさか僕の恋人になりたいって言うんじゃねいよね?」
「対対」

 そう言って、彼女は目をうるませた。僕は、この時学食のおばさんを疑った。ペペロンチーノに媚薬を入れたのではないかと。だが、俺も食べているからそれは違う。もしかしたら、中国政府が日本人を拉致するためにくわだてた策略かとも思ったが、学内下位十パーセントの成績の僕をそんな手の込んだ方法で拉致することの意義に、はなはだ疑問を感じた。
 確かに、夜来香と名乗るものは僕好みの美人だが、もしも付き合った場合に起こるもろもろを考えると、手を出す気になれず、なによりも気の強さを考えると、すぐさま断った。
 だが、夜来香は悪びれもせずにニコニコして、僕のアパートまで着いて来た。仕方なく気をそらすために買ったばかりのファミコンをやって見せる。作戦は成功で、夜来香は「ハッ!」「トウ!」の奇声をあげて夢中でやっている。そして、ぶっ続けで四時間やると、コックリコックリと舟をこいで寝てしまった。彼女に毛布をそっとかけると、起こさないよう僕もすぐに就寝した。

 この時、やりたい盛りだったが、前述の通り、手を出した後のわずらわしさを考えると、自然になえた。そんな、とほほな十八歳の春。


 翌日、夜来香は朝の講義開始ギリギリの時間まで眠って、「アイヤー」と言って、あわてて出て行った。今から自分の下宿かアパートに戻って、顔やら、服やら、勉強道具やらを整えると、明らかに遅刻である。しかし、彼ら中国人は高い学費を払っている者が多いらしいから、全力で講義を受けに来るだろうし、また一日ぐらいサボったって、日頃まじめに講義を受けているから体制に影響はないと思われる(実際に留学性が日本政府から奨学金をもらう割合は、二割程度である)。

 僕は、やれやれと思って朝の講義に出席して眠った。一時限目が終わりをつげるベルで目を覚まして伸びをしていると、僕は男女六人の中国人留学生たちに囲まれた。なに? この状況……。

「おい、どう言うつもりだ?」
「え? なにが?」
「知らばっくれるな。張(ちょう)のことだ」
「もしかして、夜来香と名乗っている中国人のことか?」
「……たぶん、そうだ。お前、張をどうするつもりだ?」
「どうするって? こっちが聞きたいよ。一体、どうすりゃいいんだ?」
「えっ?……」

 どうやら意思の疎通はできたようだ。僕の質問には答えないで、悪かったなと言って彼らは去って行った。仲間の心配をするなんて、ちょっと見なおした。でも、仲間がやられたら倍返しと言うのはやめて欲しい。あくまで噂話ではあるが。
 仕方なく、夜来香とのお付き合いをシミュレーションしてみた。

一・付き合わない。
二・付き合う。結婚はしない。……のちに国際問題に。
三・付き合う。結婚する。彼女が日本国籍になる。……彼女が嫌がるだろう。
四・付き合う。結婚する。僕が中国国籍になる。……カンベンを。

 どう見ても、外国人だと言うことが障害になっている。自ずと、答えは一とすぐに出た。これで、納得してくれればいいのだが。
 僕は、次の講義のテキストを出して一応やる気を見せた。出席名簿に名前を書いたら、すぐに抜けるつもりなのだが。

 その時、僕の肩を叩く者がいた。今までこんな風に挨拶をする友だちはいなかったから、すぐに夜来香だと分かった。僕は、やあと言って隣のイスに座らせると、文句を言われた。なぜ、もっと早く起こさなかったかと。
 だが、僕は君の保護者じゃないし、もしも起こして機嫌をそこねるかも分からない。そう言うと、夜来香はみょうに納得して、これからお互いの性格を知って行こうねと言った。
 僕は、あわててさっきの四択をあげて、君と付き合うのは不可能だと言った。
 だが、彼女はすぐに笑って言った。

「大丈夫だよ。三でOKね」
「えーー!」
「なに驚いているの? よろしくね、ダーリン」

 まさか、日本に住んでもよいと選択されるとは思わなかった。もしかして、中国は住みづらい国だと公言しているのか? 中国共産党の見栄が、はかなくも崩れた音がする。

 この後、聞いてもいないのに、本当の名前を教えてくれた。張来妃(ちょう・らいひ)と言って満州族の出らしい。僕の母は、中国大陸に一九四五年まで存在した満州国生まれであるが、その地から日本に留学してきた夜来香に、なにかいわれを感じたのは否めなかった。だが、この時は親密になることを恐れて、黙っていた。

 一九三二年。日本政府は、中国の東北部に満州国と言う国を作って、日本人およそ百万人を移住させた。その時に、馬賊(ばぞく)と言うものたちに激しい抵抗を受けるが、それを退けた。
 当時、国民党に所属して満州一帯を収めていた張学良(ちょう・がくりょう)は、日本政府と全面戦争になることを恐れて、目立った抵抗はしなかったので、その馬賊は一部の不満分子だったことは想像できる。
 それでも、一九三六年彼は国民党と敵対していた中国共産党と手をむすび、日中戦争をはじめたことはあまりにも有名だ。彼は、このことで裏切り者の汚名をかぶったのだが。
 そして今、張を名字とするものが日本に来ている。だが、中国にはこの名は多い。きっと、単なる偶然だと思った。

 さて、万が一付き合うにあたり、彼女の頭脳と外見は、間違いなくどんな日本人よりも素晴らしく思えた。だが、性格にははなはだ不満を隠しきれなかった。そこで、僕は付き合うにあたり二、三注文を出した。

一・列ができていたら素直に並ぶ。
一・相手の立場を尊重する。
一・人が見ていない所でも、盗まない、汚さない。

 中国が共産主義なった今では、仏教も儒教も忘れられて、人々の心はすさんでいると聞く。僕は、そんな人とは付き合えないし、なによりも子供の教育に悪い。そう言って、夜来香に注文を出した。
 彼女は、それが日本人になるのに必要ならと、素直に従うと言った。断われると思っていたのに、まさかこんなに素直にいうことを聞くとは思わなかった僕は、あぜんとして彼女を見る。やはり、かなりの美人である。そして、魅力的な赤い唇に、思わずツバを飲み込む。

 だが、夜来香は僕にも注文を出してきた。ちゃんと勉強してくれと。確かに、大学に入ってからの小テストは、ぜんぶ一夜漬けで、赤点ギリギリだ。なぜかと言うと、大学模試ではかなりの偏差値(私立72)まで行っていたのに、プレッシャーに負けて三次志望まで落ちてしまい、自分に失望してまったくやる気がなくなったのだ。毎日、ギターと、マージャンと、パチンコと、ビリヤードでうさを晴らしていた。やってみると、どれも奥が深くてのめり込んだが、これだけの趣味を持つことには、さすがに無理があると思っていたので、この際、趣味はギターだけにして、毎日の講義の復習をはじめることにした。
 そうすると、単位は余裕で取れるので、工業高校だけど教員免許も取ろうかと思う。第一線の研究職を絶たれた今となっては、その道が安定していて、余生を送るにはいいだろうから。

 その点、もしも中国に戻ると考えると、夜来香の前途は明るいらしい。と言うのも、中国はまだまだ後進国で、これから新しく生まれる産業も多いだろうから、研究者が不足している。だから、この大学程度だって研究職によういに着けるのだ。まったく羨ましい限りである。
 そして研究者が過多の日本において、僕が化学を専攻したことを非常に悔やんだ。電子工学部なら、個人でも部品を買って組み立てさえすれば、どんな家電も作れる。パソコンだって。だから、一発逆転もありえる。
 だが、化学では個人で買える物が限られている。あの構造が単純なアセトンだって、引火性と劇物指定でよういには手に入らない。だから、どんなにいいアイデアを持っていても、個人ではなにもできないのだ。だから僕は、電子工学部にあこがれと、ねたみを持っている。
 これも成績で進路を決めたむくいだと思ってあきらめているのだが。

 二人でおとなしく二時限目の講義を受けていると、夜来香の女友だちが寂しそうにしている。この学科に中国人留学性は七名。うち四人が女性であるが、一人は現在ラブラブで隣にはいつも僕がいるので、三人で仲良くやればいいのだが、あいにく二人とも気が強いらしい。ほかの男たちは、プライドが高くって近づきづらいと聞いている。それで、気は強いが、考え方が柔軟で、優しい所もある夜来香に救いを求めたのだ。

「ねえ、彼女を連れて来ていいか?」
 むろん、返事はOKだ。僕と夜来香と女子留学生Aが、仲良く授業を受ける。講義室を移動するときは、手をつなぐと言う仲の良さだ。もちろん、夜来香と女子留学生がであるが。
 一日たち、二日たって、三日目には、中国人留学生がみんな集まってしまった。そればかりか、僕のマージャン仲間まで集まって総勢十二人。仕方なく、自己紹介をかねて飲み会を開催すことにした。

 電車に乗って柏の町に着くと、ぞろぞろと連れ立って居酒屋の白木屋に入った。早速、乾杯の音頭を取って飲み会は始まった。
 だが、中国人は酔うとすぐ中国語になるからなにを言っているのかさっぱり分からない。だから、中国語で話した人には一気飲みの罰則をもうけた。
 それにしても、彼らは面白い。酔うと話し言葉が歌のようになるのだ。そう、『夜来香』の歌の調子のように。
 僕らは、この飲み会で仲良くなった。彼らは、日本語が上手くなると言って喜んだし、僕らは中国語を教えてもらった。まさしく、異文化交流。この輪が広がって世界が平和になればいいのに。しかし、いつまでたってもそれは実現しそうもないのだが。
 ともあれ、楽しい飲み会だった。

 あれは、梅雨に入りたての頃。実験が終わりレポートも書き終えて、傘をさして学食へ来て一人のんびりと遅い夕食を食べている時だった。中国人男子留学生のBが、ちょっといいかと言ってきた。めずらしいこともあるものだなと、いいよと応えた。

「お前、ほんとうに来妃と付き合うのか?」
「ああ、付き合うよ。多少気が強くて、なにを考えているのか分からないところもあるけれど、あんなかわいい子はいないし、意外に素直なところもあるから」
「……そうか」

 そう言うなり、彼は傘を広げて行ってしまった。たぶん、来妃を好きだったのだが、言い出せずに悩んでいるうち、横から僕に取られてしまった形だろう。
 僕は、こういう時にいい言葉を見つけられないし、また言うべきじゃないと思い、一言聞こえないように「悪い」とだけ言った。


 八月初旬。紅い唇の夜来香と出会ってから、はじめての夏休みを迎えた。電話で彼女を連れて行くと言うと、北海道の母は大声を出して驚く。さらに、中国人だと言うと、心配そうな声で本当に大丈夫なのと言う。それは、僕にも分からない。だが、そんなにひどい奴じゃないとだけ伝えた。

 帰省は、有明の東京フェリーターミナルから、旅費が一万円ほどと安い近海郵船フェリーに乗り込んだ。僕も夜来香もはじめての船旅なので少し緊張したが、なんら問題はなかった。二等室の五メートル四方のます席のようなところで、手足を思い切り伸ばして眠った。なかなか快適な寝心地だった。

 翌日、顔を洗って甲板に出てみると、あちこちで日向ぼっこをしている。僕らもそれにならって、サングラスをかけてデッキチェアーで肌を焼いた。大学へ戻ったら、ハワイに行ったと言おう。そう言って、二人でクスクス笑った。
 食事であるが、二人ともあまり金がないのでカップラーメンを三食すするが、それ以外は快適だった。波も穏やかで、心配していた船酔いもしなくてよかった。

 朝もやけむる中、北海道東部の釧路港に着いて船を降りると、母が驚いて目を丸くする。あまりにも美しすぎると言って。確かにそうだが、性格はかなりキツイ。まあ、うちにためることがことがないので、スッキリして分かりやすいのだが。
 しかし、気が強い母と夜来香は早々と意気投合したようで、僕はお飾りのように付いて行った。

 母の運転する車で、釧路駅前の和商市場と言うところに行って、カニやウニなどの魚介類をしこたま買い付けてから、レストランでちょっと早い昼食をとった。
 夜来香は、イクラとウニが半々に乗ったどんぶりに舌づつみを打って、なかなかご機嫌のようす。中国内陸部では、まだまだ生鮮食品の流通が乏しいのかも知れない。なにせ、多くの犠牲者を出した文化大革命から立ち直って、一九七八年に改革開放に乗り出して、まだ五年しかたっていないのだから。

 釧路で水揚げされた魚介類は確かに美味いのだが、僕は普通の食事をはやく食べたくて、ちょっとテンションが下り気味。それでも、空気を読んで美味しそうに食べた。

 お腹いっぱいになって、ようやく農場に向かって車は走り出した。僕の実家は、釧路から六十キロ行った平原で酪農を営んでいる。面積およそ八十ヘクタール(一ヘクタールは、百メートル×百メートル)に乳牛およそ八十頭。これだけを聞くと莫大な資産だと思うだろうが、一ヘクタールの相場がおよそ四十万円で資産四千万円にしかならないのだ。
 さらに、大規模化と機械化のために借金があるので経営はとても苦しいらしい。と言うのも、この辺のことは教えてくれないので、よく分からないし、怖くて聞けない。
 もしも、この土地が神奈川にあったなら、一千八百億円はくだらないのにと、残念に思う。もしも、釧路に首都を移転したなら、現実になるのだが、今の所そんな話は聞かない。

 そんな農場だが、僕は継ぐつもりはない。末っ子の僕はそのつもりで勉強を必死にやってきたのだから。だが、夜来香は実家に到着するなり牛舎でのエサやりだとか、トラクターの運転を真剣にやっている(公道でないところでね)。母に気に入られようとしていると思うが、見ている方が心臓に悪い。だから、翌日からは道東の観光へ連れて行ってもらった。

 遊覧船で行く阿寒湖のマリモ(なぜか、藻が丸くなっている)。山の上に静かにたたずむ霧の摩周湖(本当に、めったに晴れない)。クッシーのいる屈斜路湖(くっしゃろこ)でのキャンプ(なにかの見間違えでは?)。硫黄山のゆで卵(噴火注意!)。根室の花咲ガニ(ヤドカリ科だけど、めっちゃうまい!)。厚岸のカキ(海のミルクと言われる栄養豊富さ)。
 この中で食べるがおすすめなのが、花咲ガニと厚岸のカキ。なん日も泳いでバーベキューと砂湯を楽しめるのが、屈斜路湖

 夜来香は、楽しんでくれたようだ。少しふっくらとしたほっぺたを見てそう思う。なんだかんだで、一か月間北海道をまんきつして中国へ帰省して行った。

 夜来香が帰った後、母は思う所があったのだろうか、満州時代のことをくわしく話してくれた。

「一九三二年、日本は中国東北部満州国と言う国を作って、日本人およそ百万人を住まわせた。お前の祖父は、開拓団へ加わって馬賊と戦い作物を作っていった。
 そんな中で、仲のよかった中国人の女友だちが一人だけいた。名前は、三十年以上も前のことなので思い出せないが、私たちは片言の中国語と日本語で会話して、彼女の家にまで行って、もてなしを受けた。美味しいお茶と、口がとろけるような甘点心(かんてんしん)と言うお菓子は、今でも思い出すたびに私も満州族に生まれたかったと思うほどだ。
 そして、彼女の服装は、きらびやかな髪飾りに、身体にピッタリしたチャイナ服、そして刺しゅうのほどこされたてん足ようのクツ。とにかくみな美しかった」

 母は、そう言って遠い目をした。そんな思い出をうちに秘め、日常の酪農と言う労働をしていたのかと、母の人生をあわれに感じた。

「でも、一九四五年八月十五日、日本は負けて父はソビエトのシベリアに抑留され、母と私たち子供だけで千キロもの距離を歩いて引揚船に乗らねばならなかった。
 その途中で、日本軍の飛行場格納庫あとで弟の忠が栄養失調で死に、私たちも骨と皮だけになってもうだめかと思った時、馬賊たちが現れた。私たちが呆然としている中、彼らは食料を与えてくれた。そして、なにも言わずに消えてしまった。はじめは、混乱してなにが起こったのか分からなかったが、もしかしてあの馬賊はお友だちの知り合いではないかと思うようになった。なんの根拠もないが。
 そして、私たちはどうにか生き延びて無事日本にたどり着いた」

 その後、母はしばらくの間、なにか考えているようだったが、搾乳(さくにゅう)の時間が迫っていることに気が付くと、ようやく口を開いた。

「もしも、あのお友だちに会うようなことがあったら伝えて。私は、今も元気よ。あの時はありがとう。この御恩は一生忘れないわ。いつまでも元気でね」

 そう言うと、母は晩の搾乳に行ってしまった。僕も、ひさしぶりに手伝おうかとツナギに着がえて牛舎へ向かった。


 一年の後期が始まった頃、急に夜来香がギターを習いたいと言う。僕もクラシックギターは大学へ入ってから初めて弾くので苦労していたが、僕のギターを貸して練習をさせた。まったくの初心者だったので、はじめは苦労していたが、次第にさまになってきて、僕もあせったほどだ。

 彼女の好きな曲は、リョベート作曲『アメリアの遺言』。そして、マリヤーズ作曲『カヴァティーナ』(これは、映画『ディアハンター』のテーマ曲)。二曲とも、静かで心に訴えかける曲だ。

 二人で部室にいると、先輩の斉藤恵さんが覗きに来た。彼女は、十弦であの名曲バッハの『シャコンヌ』を壮大に弾く。はじめて聞かされた時は、脳天に電気が走ったほどだ。
 その斉藤先輩は、夜来香のギターをしばらく聞いていたが、
「どう? あなたもギター買ってみる?」
 と言った。だが、クラッシックギターは最低でも十万はくだらない。僕は、パチンコで儲けて買えたが、自費で留学している夜来香には痛い出費に違いない。
 だが、そんな心配をよそに現金で買うという。もしかして、資産家の娘かとも思ったが、笑ってごまかされた。

 こうして、ギターを買った夜来香はますますギターに力を入れ、ほかの部員から定期演奏会に出た方がいいと言われ、ちょっとご満悦。しかし、肝心の講義はしっかり押さえていたから、成績が下がることはなかった。

 そして、十二月の日曜日に、定期演奏会は予定通りとり行われた。当日、なぞの中国人二人が最新式のビデオカメラで録画していたが、夜来香は知らないという。怖いので話しかけずにいたら、夜来香のしっとりとした演奏を録画し終えると、そうそうに立ち去ってホッとする。一体、なに者だったのだろうか。

 一方、僕の演奏だが、例のあがり症が出て、散々な出来だった。打ち上げで荒れていたら、夜来香が来年頑張ろうよと励ましてくれた。かなり、格好悪い酔っ払いだった。

 一年の冬休み、僕と夜来香は車の免許を取った。彼女は、どうせ日本に住むのだから当然ねと言って、張り切って日本語で講義と実習を受ける。女の子に負けるわけにはいかないと、僕も必死になって受けたので、二人とも一か月かからなかった。免許を手に入れた時は、二人とも自然に笑顔になって、写真撮影で注意を受けてしまった。

 こうして、僕たちは二人で思い出をつくり、二人で勉強をした。入った時は、どこか色あせた校舎も、今は緑につつまれた建物だと思うようになった。それでも、喧嘩してなん日も口をきかなかったこともあった。けれど、別れなかったのは、夜来香が素直な性格だというのが大きい。僕は、この大学を卒業して思うだろう。僕は、夜来香によって救われたと。


 大学生活も、あと少しになった頃、僕は教職の実習で千葉のT工業高校へお世話になった(前にも言ったが、僕の所属している工業化学科では工業高校の教職しか取れないので)。だが、最近の生徒は荒れていると聞く。果たして、無事単位を取れるのかと心配した。

 行ってみると、注意事項がたくさん並べられた。その中で特に注意を引いたのは、金品を決して上げないようにだ。まるで、ヤクザの世界かと思うほど、その高校は荒れていた。
 あちこちに落書きが書いてある廊下を指導員の先生に付いて行くと、また確認された。
永井先生
「は、はい」
「お金は、昼ごはん分だけしか持ってこなかったでしょうね?」
「はい。それはもう」
 まるで、小学生の遠足のようだ。やはり、教職はあきらめた方がよかったか……。そう考えてる間に、教室のドアが開かれた。

「えー、皆静かに。今日は、実習生が来ている。皆、悪さをしないように」
 はーーい、などと言う調子っぱずれの返事が聞こえる。
「いいか、聞いて驚くなよ。彼は、偏差値四十から一年で六十にあげたんだ」
 えーー。と驚きの声が上がる。
永井先生。火元は消化しました。あとは、存分におやりなさい」

 そう言って、本物の先生は行ってしまった。なぜ、そんなことを知っているのかと思ったが、こうして、僕はいじめらることもなく、生徒たちに質問攻めにあった。どうやって、一年で偏差値を二十も上げたのかと。僕は、その質問に正直に答えた。
「教科書を全部覚えたら、ひたすら復習の鬼だ」と。

 基礎をやっただけで、いきなりテスト問題をを解くのは、どだい、時間の無駄だ。解答を見てひたすら覚えるのだ。
 生徒たちに神とあがめられて、授業は始まった。皆の真剣さがビシビシと伝わってくる。僕は、気持よく教育実習をやっつけた。

 僕がなんとか実習を終了したころ、紅い唇の夜来香は、釧路市役所へ就職がきまった。夜来香は、自ら市役所へ出向き、「これからは観光です。それも、十二億人をかかえる中国人を呼び込むのです」と言ったと聞く。きっと、これからはそんな時代がくるだろうと思った。

 だが、これで二人の結婚のためには、ぜひとも僕が釧路へ就職しなければいけない。僕は、採用試験を釧路のK工業高校一本にしぼった。
 結果は、M工科大学の力だろうか、無事就職が決まった。僕は、このK工業高校から偏差値六十を真剣に狙わせようと思う。

 卒研も無事すませて、M工科大学の卒業式は、武道館で行われた。桜が満開で道にはピンクのじゅうたんができていた。僕らは、その上を歩いて武道館へと入って行った。夜来香と、中国人の仲間たちと、僕の悪友たちで。

 卒業生、総勢二千人。多いと思うが、満州で死んだ人は、およそ七十万人。あらためて僕らの先輩方が負った責任を重く受け止めた。もう、二度と侵略戦争は起こしてはならないと。僕の隣で、うれしそうに壇上を見ている夜来香に、そう心の中で誓った。

 母も、この卒業式には来てくれた。僕と夜来香は、おとなしく母のビデオに収まって親孝行をした。母は、式典が終わると父の故郷へ行ってくると言って、一人福島へ行ってしまった。戦後、満州国から引き上げてお世話になった時から、実に三十七年ぶりの訪問である。きっと、涙の再開になるだろう。

 母がここまで訪問しなかったのは、遠い距離と、乳牛と言う生き物を飼っているからなのだろう。あらためて、戦後のなにもなかったところへ行って、ゼロから酪農をはじめた苦労を思い、末っ子だからと言ってあとを継がなかったことに後ろめたさを感じた。


 地元釧路へ戻ってK工業高校の教職について一年目が終わる頃。僕は、夜来香と式をあげた。衣装は、彼女の希望でウエディング・ドレス。式には、おかあさんだけでも呼ぼうと言ったが、なにか事情があるのか、来れないと言って黙ってしまった。仕方なく、僕の親戚に両親代行を頼んで、なるべく話さないようにお願いする。でも、夜来香は感情たっぷりにおとうさん、おかあさんへの感謝の気持ちを伝えていた。僕は、思わず涙が出て来てしまった。そして、何ごともなく無事結婚式は終了した。

 新婚旅行は、夜来香のたっての希望で、彼女の母親に挨拶に行く。それも、僕の母が満州から引き揚げたときと、まったく逆の道筋で。佐世保からフェリーに乗り大連港へ。大連から昔満鉄と言われた鉄道に乗って、奉天長春、ハルピン、チチハルへ。

 これも、なにかの因縁か、果たして奉天の町はずれに旧日本軍の飛行場格納庫あとらしきものを発見する。もしかして、母の弟忠が埋められたことろじゃないのかと思い、あわてて夜来香の手を引いて電車を降りると、格納庫あとを探した。そして、見つけた。忠さんの墓の印は四十年もの間しっかり立っていた。さっそく、地元の警察へ行って事情を説明して、遺骨を受け取った。荷物になるので、不謹慎だけれど宅急便で母に送った。母に電話をすると、涙声でありがとうと感謝された。きっと、おじいさんの眠る墓に入れて供養してくれるだろう。
 夜来香は、よかったねと言って、僕のしたことに理解と、より一層の愛情を示してくれた。紅い唇の熱烈なキスによって。

 チチハルへ着いたのは、予定より二日遅れて。それでも、夜来香のおかあさんは流ちょうな日本語で歓迎してくれた。
 夜来香のおかあさんの名前は、張李妃(ちょう・りひ)。日本語が話せるのは、戦前に日本人と交流を持っていたからだと言う。そして、その服装は、満州族のいで立ちで、頭に豪華な髪飾り、身体のラインが見えるチャイナ服、足には刺しゅうがほどこされたてん足用のクツをはいていた。思わず窮屈そうな足を見てしまうが、慣れているのでぜんぜん痛くないそうだ。

 夜来香のおかあさんは、着くなりごちそうを出してくれた。料理の名前は分からないが、あっさりしていて食べやすいもので、二日に渡り奉天に滞在して食べたこってり系の北京料理とは違っていて、胃にも優しかった。

 料理を食べつくして、度数が高そうだが飲みやすい酒を調子に乗ってあおっていると、どうぞ末永く娘をよろしくお願いしますと、頭を下げられた。恐縮してこちらも頭をさげていると、急に胃の中から逆流してきた。あわててトイレにかけ込むと、勢いよく……。とにかく、料理は美味しかった。

 僕は、この時まだ夜来香には、母の話をしていなかった。ただ、満州国に産まれたとしか。それは、日本人が満州でしでかしたことを考えて、話さない方が無難だと思っていたからだった。だから、この時もしかして夜来香のおかあさんは母の友だちではと、なんども言いそうになったが、ぎりぎりのところで言わずにいた。 

 夜も深くなった頃、夜来香が眠りにつくと、夜来香のおかあさんはこちらにと言って僕と二人きりで話すことを希望してきた。

「私は、張学良の側室の娘で名を李妃と言う。あの頃私たち母子は、日本軍の監視下におかれ、あなたのおじいさんはその監視役だった。それで、あなたのおかあさんに私と遊ぶように言ったの」

 驚いた。やはり母と知り合いだったのかと。今まで言わなかったことをわびて、頭を下げた。こんな、偶然があるものなのだな。きっと、忠さんが導いてくれた縁だと思い、心の中で感謝した。

「いいえ、あなたは悪くないわ。きっと、私たちを傷付けないようにと思ってのことでしょうから。
 でも、あなたのおかあさんと過ごした日々は楽しかった。ときどき夢に出るほどに。あなたのおじいさんはもう亡くなったようだけど、おかあさんは元気? もう一度会いたいけれど、やめておきましょう。私の海外旅行は禁止されているし、いろいろ迷惑をかけるだろうから。でも、一言伝えてね。今でも友だちだって思っていると」

「母から言伝です。私は、今も元気よ。あの時はありがとう。この御恩は一生忘れないわ。いつまでも元気でねと。
 あの馬賊は、おかあさんがさし向けてくれたんですね?」

 その問いには応えなかった。ただ、おかあさんは僕を抱きしめて涙を流した。もはや、あの馬賊がおかあさんの意向を受けて助けに来たかは、聞くまでもなかった。
 今思うと、母があの時死んでいたなら、僕はこの世には生まれてこなかった。だから、おかあさんは僕の恩人でもある。あらためて、この母娘との結びつきを強く感じた。

 その後、夜来香のおかあさんは、見た目が中華料理の点心(てんしん)のような甘点心(かんてんしん)と言うお菓子と、お茶を出してくれた。これが、あなたのおかあさんの大好きだったお菓子よと言って。それは、白いかわに包まれた小さなまんじゅうだった。僕は、その美しい甘点心を食べるのが惜しくなったが、夜来香のおかあさんの顔を見てみると、感想を聞きたそうだったので、仕方なく一口食べてみた。ああ、これが母が昔食べた甘点心の味かと思うと、涙が染みてきた。確かに、母が私も満州族に生まれたかったと思うほどだ。

 帰りに甘点心のお土産をいただいた。母は、きっと涙を流して懐かしがるだろう。目に浮かぶようだ。
 だが、夜来香が張学良の孫であることは、どうか誰にも言わないでねと言った。だから、僕と張李妃、二人だけの秘密である。


 新婚旅行から帰って、日常を取り戻したある朝、夜来香はいなくなっていた。さようならの手紙と、結婚指輪を残して。
 あわてて手紙の内容を見ると、あの日僕とおかあさんの話をひそかに聞いて、ぜんぶ知ってしまったらしい。

 私には、関係のないことだと思おうとしたが、だんだん自分の中で大きくなっていって、もはや無視できなくなった。
 私のおじいさんと、あなたのおじいさんの関係は、監視する側と監視される側だったかも知れないが、きっとそれほど悪い関係ではなかったように思う。しかし、敵の孫同士が結婚したなんて、もしもおじいさんが知ったら、きっと悲しむ。
 おじいさんとは一度も会ったことはないけれど、私はおじいさんを、張学良を尊敬する。だって、おじいさんが動かなければ中国人同士で、いつまでも殺し合っていたでしょう。そして、中国が日本に勝つこともなかった。ねえ、そうでしょう?

 僕は、その考えに反対だったが、戦争をはやく終わらせる意味では、大きく働いたのではないかと思う。
 しかし、今の問題は来妃がどこへ行ったのかということと、果たして張学良は僕たち二人の結婚を悲しむかということだ。僕は、手紙の続きを急いで読んだ。

 だから、私はあなたと縁を切って、どこか知らない国で生きていこうと思います。離婚届は近いうちに出しますから、どうぞよろしくお願いします。こんな気の強い女を愛してくれて、今までありがとう。サヨウナラ。

 いつもの再見(さいつぇん)を使わないところを見ると、もう会わないつもりらしい。僕は、あせってあちこちに電話をした。だが、行方は分からなかった。
 結局、最後にたどり着いたのは、張学良だった。彼は、政治犯として台湾当局に軟禁されている。果たして会えるのかと思ったが、僕が孫の夫だと言うと、快く会わせてくれることになった。

 夏休みを利用して台湾へ行ってみると、彼は大きなアパートに何人かの警備のものをつけて生活していた。テレビ、冷蔵庫、クーラーと何でもそろっており、一人で自由に出歩けないことを除けば、快適な暮らしに見える。
 だが、他の人とまったく違うのは、近親者がいないことだ。彼の妻と子供は、一九四〇年以前にアメリカに渡ってしまったし、側室とその子供は今も中国政府に監視されていて、台湾へ行くことを許可しないのだろう。だから、国民党が移り住んできたこの台湾には、誰も身内がいないのだ。

 彼が背負った運命に同情はするが、今は夜来香の情報を知りたい。僕は、十分に言葉を選んで話をした(張学良さんは、日本軍とのやりとりで身に付けたのだろうか、日本語がとてもうまかった)。

「はじめまして、張学良さん。私は、お孫さんの夫で永井修一と言います」
「それで、いったい何の用だ?」

 八十を越えているのに、声に張りがある。まるで、現役の指揮官のようだ。僕は、声に圧倒されてさらに緊張を強いられた。

「は、はい。実は、お孫さんは出生の秘密を知って、僕の前から消えてしまったのです」
「なに? 俺の孫だと知らなかったって?」

 そう言うなり、張りのある声で笑い出してしまった。しばらく笑った後で、彼は遠くをみつめ言った。

「隠すから、よくないんだ。最初から、話していればなんのことはない。俺は、国民党を裏切った極悪人だとね」
「え! 違います。あなたはお孫さんの中では、断じて英雄です」

 その僕の言葉に、張学良は泣き出してしまった。もちろん、彼を泣かせたのは、孫の夜来香である。
 僕は、この時確信した。彼は、僕たちの結婚を、悲しんでなどいない。むしろ、喜んでくれるに違いないと。

「張さん。実は、僕はあなたのお子さんと友だちだった徳子の子供でなんです」
「え、なに! そうか。あの日俺が助けた徳子の子供か!」
 そう言うと、張学良はそうこうをくずして僕に抱き付いて来た。
「俺は、うれしいよ。自分の人生は後悔ばかりだったが、こんな立派な青年を生み出すことに、ひと役かっていたんだ」

 後の話は簡単だった。おじいさんは、むしろ喜んでいる。だから、はやく帰って来いと叫びたかった。

「ところで、定期演奏会はしっかり録画したビデオを見たよ。心に染み入る演奏だった。お礼を言う。俺の孫にギターを教えてくれて、ありがとう」

 これには驚いた。しっかり孫のことは気に掛けていたんだ。わざわざ、警備の者に録画を頼んでまでも。そう、張学良は人情に厚い人だった。決して冷血な指揮官ではなかったと。

 この話は、美談として全世界に発信させてもらった。そして、遠くから電話をかけてきた夜来香が、まもなく成田に着くだろう。僕の子供をつれて。


(終わり)

20170304-実話・満州国に生まれて 45枚

修正2018/10/16

※これは、母の実話です。


 これからお話しすることは、六十年も前のことなどで、私の記憶が怪しいかも知れません。また、ところどころ母から聞いた話や、私が調べて知ったことで内容を補っていることを、あらかじめお断りします。


 日本は、まだ江戸時代の一八四〇年。中国はイギリスにアヘン戦争を起こされ、一八四二年その戦争に敗れる。そして、多額の賠償金を払わされ、国土の一部を譲渡する。それを、皮きりにアメリカやフランスにも不平等条約を結ばされる。
 一八九五年、日清戦争に勝った我が国も、中国侵略に乗り出す。しかし、列強諸国によってはばまれた日本は、ロシアと決定的な対立をして一九〇四年、日露戦争が始まった。
 激しい戦闘の末、多大な犠牲者を出して、日露戦争にどうにか勝った我が国は、さらに中国侵略を深めていった。一九〇五年のことだった。

 ちょうどその年、父、清二が生まれた。父は、小さいころから力自慢で、福島県二本松市の相撲大会などで頭角を現した。小規模な地主だった両親も、父の後押しをして、賞品の米や味噌をありがたく頂いた。
 そして、十七歳を迎えたころ、相撲部屋にスカウトされて意気揚々と上京する。だが、はじめのころは技がなくて、力の弱い者にも簡単に負けた。しかし、父はくさることなく技を身に付け、しだいに勝ち星を上げて行く。
 そして、二十二歳になりもう少しで十両になろうとしたとき、部屋のお嬢さまとの縁談が持ち上がった。

 この時、田舎から手紙が来る。内容は、兄の病気が思わしくないので、帰って来て家をついで欲しいと言うものだった。親方には引き止められたが、家の存続の危機に父は家をつぐことを選択した。父は農業に向いていていたのだろう、農作物は豊かに実り明治維新以来の収穫をほこった。
 だが、五年がたつころ、父の兄が病気を克服し、父は所在を失う。もう、二十七歳になっていて相撲の道へ戻るには身体が着いてこず、かといって農業のほかになにも手に職を持ってはおらず、また商売をやるすべも知らなかった。
 途方に暮れていると、一九三二年、新聞に大きく書かれていた。大陸『満州国』に開拓に行く有志を募集! と。これは、日本が一九二九年にはじまった世界恐慌で苦しんでた中、中国に活路を見出すために軍部がくわだてた暴挙である。無知な父がそれに飛びついたのは仕方ないことだったのかも知れない。そして、親や兄も止めることはなかった。
 父は、軍事訓練と農業研修などを受けると、満州国へと旅立った。

 父は、満州国開拓団の部隊に着くと、すぐに激しい敵襲を受けたと言う。約半数の隊員が命を落としたり、開拓を断念してしまう。そんな中で、父はあきらめずに敵と戦い、開拓を押し進めた。そして、福島県の親戚の紹介で母と結婚する。
 私は、母は勇気があると思う。当時は当たり前のことだったかも知れないが、私だったら一度も会ったことがない男性とは、とても結婚できない。
 そして、まさか自分が嫁ぐところが、激しく抵抗運動を受けているとは知らなかっただろう。言うなれば、詐欺に合ったようなものである。本当のところ、どう思っていたか一度も聞かずじまいだったことが悔やまれる。

 ここで、『部屋のお嬢さんとの縁談が持ち上がった』と言う下りだが、父が教えてくれた話だったので、疑わしい。けれど、父は晩年になって私と東京に遊びに行った折には、聞いたことのある四股名(しこな)の元力士と会って来ると言っていたので、あながち嘘だったとは思えないのだが。


 私は、満州国に生まれた。名前を徳子と言う。一九三七年九月九日、三江省樺川県弥栄村(さんこうしょう・かせんけん・いやさかむら)(現在の中国黒竜江省北東部)と言うところで農家をしていた父清二と母キヨとの間に、四つ違いの兄、誠太郎の妹として生を受けた。
 満州国とは、日本人が満州民族およびモンゴル民族の土地を奪って、旧清国の最後の皇帝アイシンカグラ・フギを傀儡政権に立てて、一九三二年から一九四五年までのおよそ十四年間存在していた国である。
 日本のおよそ倍の面積に対して、人口は一九四二年の段階で四千四百万人。その構成は、日本人はわずか五パーセントの二百二十万人で、残りの九十五パーセントは、満州人、蒙古人、漢人などであった。
 また、日本人と言ってもあのころは韓国人を入れた数なので、それを除くとたった二パーセント強の百万人。さらにそのうちの開拓移民団はその半部以下の三十万人だったので、潜在的に危うい状態だった。
 それでも、百万人はとてつもない数で、それが短期間に日本から中国に動いたのだからすごいとしか言えない。

 そんなことはわかるはずもない幼い私は、満州国のど真ん中をオカッパ頭で元気に駆けまわっていた。私がもの心ついたのは、三歳になったころだったように思う。気がつくと、四つ離れた兄、誠太郎の後を必死で追いかけていた。
「おい、徳子。俺の後に着いて来るなよ」
 そうは言ってもこちらは必死である。もしも、兄とはぐれたら周りには、漢人やら満州人やらがたくさんにいたから、怖くて仕方がない。
 家は、一階建てだが、壁は分厚い木の板を土で固めた土壁でてきていて、屋根は固いコウリャン(モロコシ)ぶきの屋根だったので安心だった。それでも私はたったひとりで家にいることが不安で仕方なかった。
「待ってー、兄貴ー!」
 私は、なぜか兄の誠太郎のことを、『兄貴』と呼んでいた。父と母はそうは言っていなかったので、なぜそう呼んでいたのか、兄が亡くなって二十数年たつ今となっては、確かめようがない。
 だが、これだけは言える。兄は幼いころから身体が大きくて、なにごとにも率先して挑戦すると言う度胸があった。それは、高い所から飛び降りることだったり、大人に混じって切っ先の鋭いカマを使って農作業をしたり、ニワトリの首をしめあげてさばいたり、トウモロコシからドンと言う装置を使ってポップコーンを作ったりと、とにかく兄は度胸があった。
 だから、私は『兄貴』そう言って、常に兄の後を追った。

 だが、そんな兄にも苦手なものがあった。それは、父の礼儀作法のうるささだった。食事中に兄がボロボロこぼしながら食べていると、
「なんだ、その食べ方は!」
 そう言うなり父の鉄拳がさく裂して、兄は吹き飛ぶのだ。このように、とにかく父は礼儀作法にひどく厳しかった。母の話では、相撲部屋のお嬢さまの影響だと言うが、この話はあまり話したがらなかったので、一度きりしか聞いていない。

 一方の私は、中国人を怖がっていたが、なぜか中国人の女友だちができた。それはきっと、兄がなにか注目されることをしたからだろうと思う。
 その中国人とは満州族で、先の中国を支配していた清国から、満州族の故郷へ逃れて来た人たちだった。私たちは、仲良くなって身振り手振りで意思を伝えて遊んでいたが、ある日家に招かれた。
 友だちのおかあさんは、私にお茶とお菓子を出して歓迎してくれた。そのお菓子とは小さい形に整えられていて、一口食べてみるとその美味しいことと言ったら、それはもう私も満州族に生まれかったと思うほどだ。後に甘点心(かんてんしん)と言うのだと知るが、形は中華料理の点心のようで、具は上品にあまいお菓子でできていたものが多かった。中でも私は、白ゴマをまぶして薄皮につつまれた団子が大好きである。
 それをペロリと平らげてから、足の甲を小さく折りたたむ纏足(てんそく)用のクツを見せてもらったり、志那服(日本名チャイナドレス、満州族の間では旗袍(ちーぱお)と言うらしい)を見せてもらったり、頭の上で輪を作る髪飾りを見せてもらったりと、とにかく皆上品で美しかった。
 しかし、私はなにも見せるものはなくて困っていたら、私のスカートやブラウスに興味を示したので、それじゃと言うことでお互いに脱いで着せ替えっこをした。私たちはニコニコして、その姿を友だちのおかあさんたちに見せたが困った顔をしていた。今にして思えば、私の前で怒ることもできずにいたのだろう。だが、そんなことは気づかずに、私たちはしょっちゅうそんな遊びをした。
 その子の名前を思い出そうとしたのだが、ついに思い出せなかった。なにせ、もう六十年も前のことだから。でも、会いたいとは思わない。あとに述べるのだが、彼女も他の人と同じように、日本が敗戦したと知ると、態度をひるがえしてしまうと思ったからだ。


 それより少し前の一九四〇年六月。私たちの弥栄村に昭和天皇陛下の弟帝、高松宮宜仁親王(たかまつのみや・のぶひと・しんのう)が視察に来られたそうだ。
 父は、このとき親王と言葉を交わして、馬賊(ばぞく)との戦いの働きと、大規模農業の成功を、労われたと聞く。もしかして、同じ一九〇五年生まれであるので、親近感がわいたのかも知れないが、それはあくまでも想像の域をでない。
 また、このころ周囲には、父が元力士であると言っていたのかわからない。それでも、一八〇センチ近くある身長と、分厚い胸周りは、只者ならざる者であると気付くであろう。その立派な体格で父が謁見の任に選ばれたのかも知れない。
 父は後々まで、この時の話をうれしそうに語った。

 馬賊と言えば、あのころ、私たちが住んでいた土地のほとんどは、満州族たちから相場の二割程度のお金と引き換えに強引に取り上げたものだが、彼らは馬賊と言われる抗日団体を組織して、私たち日本人を襲った。だが、馬賊は徐々に抵抗を弱め、私の生まれたころには被害はほとんどなくなった。それでも、日本人に対する反感は、後々まで残ったであろう。
 母は、私たちをよくこう言ってしかった。
「夜中に口笛を吹くんじゃない。馬賊が来るよ」

 そうして奪った土地は開拓団に分配され、父の所有した面積はおよそ二十ヘクタール(一ヘクタールは、百メートル×百メートル)。そこでは、主に大豆、コウリャン、アワなどを作っていた。
 大豆は、三十度以下の比較的涼しい気候を好み、降雨量が適度にあるところに生息する。これは主食にはならないが、枝豆、納豆、豆腐、味噌、醤油など、様々な製品に使われるので高値で売れる作物だった。しかし、この作物は連作が生育不良などの障害を引き起こすので、二年くらいはなにか他の作物を作らなくてはいけないと言う難点があった。
 そこで大豆の間に作られたのが、中国名コウリャン、日本名モロコシ、アフリカ名ソルガムと言うイネ科の作物。これは、温暖で降雨量が少ない所に適し、元々アフリカのサバンナなどが原産地で、茎は固く三メートルにもなって前述のように屋根などにも使われていた。食べ方は、日本や中国では粥(かゆ)のようして食べていたが、アフリカなどでは粉にひいた後に練ってペースト状にして食されているようだ。私はと言うと、やはり粥にして食べていたが、米よりもちょっと固いが癖のない味で、今の時代の健康食と考えると中々おつな味である。
 アワもイネ科の作物で、温暖で降雨量の少ない所に適している。そして、二~三か月で育つことから中国では昔から米よりもアワを主食としていた。食べ方は、コウリャンと同じく粥などであったが、味はあまり美味しいものではなかった。
 それらの脱穀などで出る農業廃棄物で、ブタやニワトリを飼っていた。だから、ゴミは出さないし、いつも食卓には卵や肉を切らしたことがなかった。きっと、このころの私は丸々と太っていたに違いない。

 中国人には申し訳ないと思うが、今でも時々夢に見る。広大な土地に豊かに実る作物を。


 私が好奇心旺盛な七歳だったころの一九四四年。その事件は、大陸に冬が迫りくる底冷えのする日に起こった。開拓団のひとりが、三メートルにもおよぶ巨大なトラに襲われたのだ。それは痛々しい遺体で、トラは捕獲した死体を木の上に隠してゆうゆうと食べたと言う。
 まず、柔らかいお腹を食い破り、内臓をペロリと食べた。次に、よく筋肉の付いた足と腕を骨までしゃぶりつくすように食べた。そして、頭をガリガリと食い破り柔らかい脳みそをひと飲みしたのである。残ったのは、骨だけだったと言う。

 それを聞きつけた兄は、密かにトラ退治をもくろんでいた。兄は決してひとりでトラ退治に行かないように父からきつく言われていたが、そんなことは聞く耳を持っていない。父が村の集会に行った日に、兄はゲートルを足に巻いて、肩には大きなライフルをかついで、勇ましくトラ退治に出発した。その後ろを、私はひそかに着いて行った。
 収穫を終えた畑はさえぎる物がなくて、トラがいないことはすぐにわかった。兄は、それからヤブの中に分け入って、ライフルの銃床(じゅうしょう)でイバラを蹴散らし進んで行った。
 息を切らして着いてくと、突然、兄は立ち止る。見ると、目の前が開け、大きな木の上にトラがいた。兄はその場に立ち止まり、そーっと身をひそめる。私は怖くなって兄のオーバーをつかんで震えた。ビックリした兄は、すぐに困り果てた顔をする。
「おい、なんで着いて来た?」
 兄は、声をひそめて、そう言った。
「だって……」
 それは、好奇心からだっただろう。それに、兄の後を付いて行けば安全だってことが、それまでの様々な経験から、知っていた。だから、私はどこまでも兄に着いて行ったのだ。
 だが、兄にとっては、この緊迫した場面で妹の心配をしなければならないことに、激しく動揺しただろう。失敗は自分の命だけでなく、妹の命まで奪うことになるのだ。それでも、こうなったらもうやるしかない。そう兄は決心したに違いない。
 今にして考えると、いらぬ責任を負わせてしまって申し訳ないことをしたと思う。

 覚悟決めたように、兄は腹ばいになってライフルかまえ、目をこらしトラに標準を合わせた。静かに長い息を繰り返し、息をピタリと止めた。
 次の瞬間、引き金は引かれ撃鉄が落ちて、らせん状の銃口から銃弾が弾き出される。そして、トラの頭に到達すると、銃弾は頭がい骨に穴を開け、脳みそをメチャクチャに破壊する、……はずだった。だが、トラは一度目を閉じただけで、倒れはしなかった。
 続けて二発目を腹部に、そして再び頭部に命中させるが、トラはびくともしない。きっと、分厚い皮膚と頭がい骨が銃弾をはねのけているのだ。そう思っている間に、トラは静かにこちらに向かってくる。
 私は、怖くて動けなかった。そう、この時点で腰を抜かして、涙をポロポロこぼし、オシッコをもらしていた。
 私の命は今消えるのだ。それも、あの村人の遺体と同じように、首に食いつかれて息の根を止められ、その後じっくりと内臓を食われるのだ。私は、父と母に別れを言った。
 その瞬間、突然兄が大声を出して泣き出した。ああ、兄もあきらめて泣き出したのかと、私は兄の手を握って運命を共にしようと決めた。おーい、おいおい。おーい、おいおい。
 それを聞いたトラは勝ちを確信したのか、口を大きく開けて一声、「ガオー!」と吠えた。
 その時、兄はいち早くライフルをかまえ、開いたトラの口に一発の銃弾を放った。
「ズドーン!」
 その銃声のあとに、トラは足元からくずれ落ち、静かに倒れた。その姿を見守っていた私たちは、お互いの顔を見つめ合って、抱き合った。私は、兄の胸で頭をなでられて、涙をボロボロこぼし、鼻水を垂らして、大声でおいおい泣いたのである。
 本当に、この時のことは、今でも思い出すたびに、背筋が凍る。二度と経験したくはない思い出である。

 次の日、兄は父をともなって、荷馬車でトラの遺体を回収しに行った。しかし、トラの臭いをかぐと馬が腰を抜かして回収できずに、結局村人十人ばかりの人の手を借りねばならなかった。その十人は皆、率先してただで手伝ってくれたのだが、それは人食いトラを退治してくれた感謝の気持ちからだろう。
 その後、村の人たちにトラのバーべーキューを振る舞ったのだが、腸は誰も食べる者がいなかったのは、当然のことであろう。

 兄は、この時十一歳になったばかりだったが、父はこれ以降一人前の男として扱った。


 一九四五年、日本本土の戦局は厳しいものになったようだが、私たちの暮らしはいたって平穏だった。だが、日本への食料の輸出が義務付けられて、その厳しさは伝わってきた。
 そして、一九四五年五月、ついに父たち開拓団の男たち全員にも召集がかかった。私たちは涙でお別れをした。その時の父の言葉が、なにかあったら俺の実家に行きなさい。きっと、よくしてくれるからだった。
 父は、この時敗戦すると思っていたのだろう。あの豊かな国アメリカと戦争を始めてしまったのだから。そして、まもなく日本は全面降伏する。一九四五年八月十五日のことだった。
 それまで愛想のよかった中国人たちが、急に態度をひるがえして言うことを聞かないどころか、誰かが石をぶつけられたと聞いた。そして、彼らは日本人は出て行け言って私たちの家に迫って来て、いつ押し入ってもおかしくない状態だった。兄がライフルで武装していたから、どうにか襲われることはなかったが、異国で敗戦するということが、いかに恐ろしいものかを、この時はじめて知った。
 このままでは、命の保証もままならないと感じた私たちは、集団で防衛するために、一か所に集まった。

 父は、終戦になっても帰って来ることはなかった。きっと、ソビエト軍の捕虜となったのだろうと聞かされ、母はその場に泣き崩れた。うわさに聞く極寒の地シベリアに抑留されたと思ったのだろう。実際そうだったが。
 父は、いつでも側にいて、私たちを守ってくれるものだと、思っていた。その父が、突然いなくなったのだ。私はこの時ほど、心細いと思ったことはなかった。全身が震えて、涙が止まらなかった。
 けれど、そんな時にも兄、誠太郎はひるまなかった。父は必ず生きて帰ってくると言って私たちを勇気づけ、日本に帰ることをいち早く決断した。異国で産まれて、まだ見ぬ祖国、日本を目指そうと。とても頼もしくて、安心したのを覚えてる。
 だが、日本政府はなかなか引揚船を出してはくれなかった。その間、ソ連軍が満州国に押し入って、とても危なくて外を歩くことはできなかったし、私たち日本人は中国人のば声と、暴力におびえる毎日だった。
 そして、なによりも食料が足りなかった。畑の作物は、とても危なくて刈り取る事はできなかったし、当然春になっても作付けはできない。このままでは、全員飢え死にしてしまうとあせっていた。

 そんな中で、兄は中国人にまぎれて日用品を売ったり、荷役を手伝ったりして、お金を稼いだ。そして、私たちに食料を運んでくれた。
 兄は、流ちょうな中国語を話せたからできたことだろう。いかに、言葉が大事かと言うことを知った。
 そうやってどうにか生き延びていた中、一九四六年三月に突然ソ連軍が撤退し、五月には日本政府がようやく引揚船を出してくれた。
 母と兄と私と幼い弟は全員で、着る物をあるだけ重ね着して、母は襲われないように髪をバッサリと切って男物の上着を着込んで、各自リュックサックにできるだけの食料をつめて、逃避行の準備をした。

 私たちはライフルをかまえた兄を先頭に、生還のための行列に加わって、必死の行軍が始まった。年寄の男たちと、男の格好をした女たちと、それに子供たちの、ひどく弱々しい行軍だったろう。
 この時、信じられないが汽車(蒸気機関車にけん引された列車)には乗らずに徒歩で行った。私たちが、もし乗ったら袋叩きに合うのは目に見えていたから。
 そして、韓国を経由しては危ないということで、大連(だいれん)まで行って船に乗るように言われた。チチハルから大連までの距離およそ千キロ。途方もない距離だった。その時は、距離が伏されたが、もしも知っていたなら、きっと私は歩くことを放棄しただろう。
 脱出経路は、チチハル、ハルピン、長春奉天、大連の全行程に渡って、行軍は夜行われた。そして、夜明けになったら人に発見されない場所を見つけて、見張りをつけて、昼間眠った。多くは橋の下で眠った。
 朝寝る前には固い干し肉や、コウリャンの粉に水を含ませて少しずつ食べた。それでも、食料が足りなくなったが、農家に行って物々交換をする分けにはいかず、仕方なく兄が命の危険をかえりみず農家から盗んだ。実際、それで帰って来なかった者も多かった。想像してほしい。老人や小さな子供が、捕まってなぶり殺しになる場面を。悲しいことであるが、盗まなくては生きて行けないのだ。
 そんな悲惨な中、八歳の私は足が痛くなったが、歩くことは止められなかった。止めれば、そこで餓死。運がよければ、心ある中国人にひろわれて、育てられただろう。文化大革命が終わった一九八〇年代になって、戦争孤児のニュースをテレビでよく聞いたが、そう言った者たちは、そんな行軍について行かれなかったのかも知れない。

 途中、暴漢に襲われたり、餓死したり、病気で亡くなったりして、はじめの人数よりも大分少なくなったが、一日約二十キロ、日数およそ二か月かけて千キロを歩き、大連にようやく到着した。大陸のひどく暑い夏なのに、風呂にも入らずに着の身着のままだったので、ひどく臭っただろう。だが、そんなことを気にする余裕はなく、とにかく食べることと、寝ることに必死だった。
 私たちは、やっと日本に帰れるとほっとしたのだが、引揚船にはすぐに乗れるわけではなかった。それから、数が月間待たされることになる。数十万人の日本人がいっきに押し寄せたので、仕方のないことだったのだろう。旧日本軍の飛行場あとに皆で隠れて順番を待った。その間の食料は自分たちで調達しなくてはいけなかった。
 ここでも、兄は中国人にまぎれて、荷役などの仕事を見つけるなどして、私たちに食料を運んでくれた。私たちは、ただおびえながら兄の帰りを待つことしかできなかった。
 何か月も順番を待つ間に、弟の忠が栄養失調で亡くなった。今思えば、コウリャンを湯がいて食べなかったのが原因だったかも知れない。そのため、毒素が身体に溜まって命を落としたと思う。
 実際、私たちの身体のあちこちに原因不明の出来物ができた。身体が小さい子供ほどそれは深刻で、ほとんどの幼い者はそれで亡くなったと思っている。この時、私は九歳で、どうにかまぬがれた。
 忠を抱いて泣き続ける母をなだめ、兄は飛行場の格納庫のわきの土を板切れで掘り返して、忠の亡きがらを埋めた。
 私は、痩せてガリガリな手を合わせながら思っていた。明日は我が身だと。その日は、お腹が減っていたのもあるが、中々寝つけなかった。

 今も弟の忠は、中国の大地に眠っている。戦後、私にはそこまで行く勇気はなかったし、どこなのかよく覚えていないので。
 その事を思い出すたび胸が痛む。忠と一番長い時間を過ごしたのは、私だったから。母が、農作業をする間、おんぶをしてあやし、下の世話をした。そして、一番早く覚えた言葉が、おねえたんだった。おしめが取れたら、私が兄のあとを追ったように、今度は忠が私のあとを追った。だから、四六時中一緒にいたし、よくしゃべり、よく遊んだ。そんな忠を亡くしたのだ。
 だが、私はついに泣けなかった。その時は、私も同じように死ぬのだと思っていたから。そんなギリギリの状態だった。


 弟の死のあと、私たちはようやく引揚船の順番が来た。やっと、日本へ帰れるとマットのしいてある客室でほっとしていると、船内にロシア兵が乗り込んで来て、若い女性は皆どこかに連れていかれた。幼い私にも、これがどういうことなのか、おおよその見当はついた。
 放心状態で返って来て、突然泣き崩れる者、正気を失った者、海に身投げをする者を見てあらためて思った。これが、異国で敗戦するということなのだと。幼心に、深くきざまれた教訓だった。私は、恐ろしくて兄にずっとすがりついて怯えていた。

 私たちを乗せた船は、悲劇の大連をあとにして、一路佐世保港へ向かった。船の客室は、むせび泣く若い女性の声と、病気の子供や老人たちの咳に苦しむ声だけだった。その中で、兄と私はひたすら寝たふりをした。甲板(かんぱん)にはあがることは、禁じられていたから。
 その中で、若い女性が死んだ。ある日、目覚めることなく静かに逝った。きっと、結核かなにかをわずらっていたのだろう。襟には、血の跡が付いていたから。船内にそのまま置いておくには、どうしても不衛生になるからと言って、泣いて止める母親を残して、亡きがらは海に沈められた。
 それ以降、栄養失調や、結核の人たちが、次々と死んで、海に流されて行く。私たちはその中で、骨と皮だけになりながらも、どうにか生き延びた。

 一九四七年四月を迎えるころ。船は、本来なら一か月で着く所を各地で止められたため、大連から半年近くもかかって、ようやく佐世保に着いた。
 のちの集計によると、開拓移民団三十万人のうち生きて帰って来た者は、たった十万人だけだった。他の者は、途中で襲われたり、シベリア抑留者となって病死したりして、無事帰って来た者は少なかった。私が生きて日本に帰ってきたことは、その三分の一の確率だった。

 はじめて迎える日本の春は、桜はもうだいぶ散っていたが、樹々のざわめきに心が穏やかになった。そして、石をぶつけられていじめられることもないし、命を落とすようなこともないし、ここにいても誰もなにも言わない。それが本当に心地よかった。それが、日本の地に足を降ろして、最初に思ったことだ。
 私たちは、それからすぐに自由に歩けたわけではなかった。まず、検疫(けんえき)を受けなければいけないと言われ、施設の中で順番を待たされた。検疫の内容は、伝染病は持っていないか、妊娠はされられていないかなどのである。妊娠した女性は、ただちに堕胎手術を受けるのだが、船の航行時間が半年近くかかっていたので、手術中で亡くなる者も多かったと聞く。それでも、青い目の子ども産んだら、生きては行けないと、みな覚悟して堕胎手術に挑んだそうだ。
 無事に検査がすむと、DDTという殺虫剤の白い粉を頭からかけられて害虫駆除をされた。今の時代ならばDDTは人体に悪影響が及ぼすかも知れないといって使われないのだが、その時はそんなことは知らなかった。ただ、肺に入らないように必死で口を手で押さえていたのを覚えている。とても、不快だった。
 しかし、検疫所に留め置かれた間、食事が出されよろこんだのも事実である。実に、約一年ぶりのちゃんとした食事だった。白いごはん、みそ汁、焼き魚に、漬け物。涙が出るほど、美味しかった。

 検疫が終わると、私たちは旅費も配布されて、よろこんで汽車に乗り込み、父と母の故郷、福島へと向かった。
 途中の風景は覚えていない。ひどく疲れていたのと、栄養失調でフラフラだったので。だから、佐世保から福島までどいう経路で帰ったのかは、思い出そうにもはじめからわかっていない。
 だが、窓の外から時々眺める風景は、大きな都市は空襲で焼けて、まだ復興してはいなかったように思う。


 私たちは、まる一日汽車に揺られて、ようやく福島県二本松市へ到着した。母は、途端に元気になり先頭を歩いて、父の実家までの道中、あれは安達太良山(あだたらやま)ね、これは阿武隈川(あぶくまがわ)ね、などと説明してくれた。そう、ここは高村光太郎の『智恵子抄』の舞台。そうは言っても、この時そんな知識はなく、ただ腹いっぱいに食べたいと言う思いしかなかったので、母は私たちの反応にひどくがっかりしたようだった。
 私たちが帰った所は、父の実家。父の言う通り、父の両親や兄たちは私たちを歓迎してくれた。着くなり、よく帰って来たねと言って涙を流し、腹いっぱいの食事と、ひさしぶりのフロと、そしてきれいな布団を用意してくれた。私たちは、それを有難くいただいたが、いつまでもお世話になりっぱなしでは申し訳ないと言って、次の日から自分たちの食いぶちを稼いだ。
 この年、農地改革が行われ、それまでの地主としての権利を失って、父の実家は小さい農地を必死で守っていかなければならなかった。だから、両親たちも苦しかったのだ。それなのに、無理をして私たちに、よくしてくれたのだ。その気持ちが有難かった。

 次の日から母は、野良仕事の手伝い、ぬい物などを仕事とした。兄も、野良仕事の手伝いなどをして、私たちにごはんを食べさせてくれた。私は、この時まだ九歳の小学生だったので、近所の子供の子守などをして、小銭を頂いた。
 あのころ、きれいで優しかった従姉のおねえさんは、私に時々おにぎりや、お菓子をこっそりくれた。私も大人になったら、おねえさんのようにやさしく、きれいな女性になりたいと思っていた。だが、残念ながら私の願望は、果たされなかった。私は、それから約十年後、たくましくなって農家に嫁いだから。
 この間、息子が大学に入った折、実に三十数年ぶりで従姉のおねえさんに会いに福島に立ち寄ったのだが、私の感謝の言葉におねえさんは涙した。北海道で、よく頑張ったねと。

 父が、ソ連から帰ったのは私の記憶では、一九四九年の秋、私が十二歳ころだったと思う。まさか本当に生きて帰ってくると思っていなかった私は、父の足元を穴が開くほど見た。そんな私を抱き上げ、涙する父。やはり、人の親なのだとあらためて父を見直した。見る影もなくやせ細って、一回りも二回りも小さくなってしまった父。だが、大黒柱が帰ってきて、私は心底ほっとした。
 母は、忠を失ったことを父にわびた。その時、父は一瞬言葉を失ったが、母の肩を抱いて、すまん、苦労させたな、と言った。私たち四人は抱き合って涙した。私は、この時はじめて忠を思って泣いた。忠が死んでから、実に三年がたっていた。
 それから父は、帰された理由を話したのだが、栄養失調になって帰されたと言った。シベリアに送られて大変だったと思うが、そんなことはなく、手先が器用だったので、主に大工仕事のまねごとをさせられて、そんなには苦労しなかったらしい。これは、あくまで本人の言葉であるが、私たちにつらかったなどと言う人ではなかったので、作り話とも考えられる。
 実際、父の立派な体格は、二度と戻ることはなかった。

 それで、父がこの福島でなんの仕事をするのかと見ていたら、市役所に行ってすぐに北海道行きを決めてきた。父は、手付かずの土地がただで手に入ると言う話を聞いて、即決したらしい。
 確かに、ここにいても十分な食料を口にするのは難しいだろうし、四十を超えて今から住み慣れない町で暮らして行く自信はなかったのだと思う。
 だが、私はそんな寒い所は嫌だったし、なによりも熊が怖かった。それは、母も兄も同じ思いだったに違いないが、言った所で父の決断はゆらぐことはなかった。その日のうちに荷造りを始めた父だった。


 旅立ちの日、父は両親とお兄さんたちに別れを告げると、お気に入りのゲートルを巻いて、さあ、これから北海道へ行くぞと言って、私たちの先頭を勇ましく歩き始めた。私たちは皆、下を向いてリュックをかつぎ、父の後について行った。
 夕方、二本松の駅で汽車に乗って、父母の故郷福島を後にした。辺りはすぐに真っ暗になり、景色を見ることはできなかった。私たちは、その夜汽車の中で、アワのおにぎりを食べた。粒が固くて美味しくはなかったが、とても米を買うお金がなかったので仕方なかった。けれど、家族旅行だと思えば味も変わるものだ。父が帰って来て、母がいて、兄がいて、弟の忠は残念ながらいないが、家族の初めての旅行だ。私は妙にはしゃいで遅くまで起きていたが、いつの間にか眠ってしまった。
 翌日、母にゆり起こされた。窓の外を見ると、どうやら青森駅に着いたようだ。私はあわててリュックを背負ったが、これから連絡船に乗るのだと聞かされ、引揚船の悪夢を思い出して、身体が硬直してしまった。それを感づいた兄が、大丈夫だ、もう人が死ぬことはないからと言う言葉に、ようやく身体に自由が戻って汽車を降りた。
 まだ十月だと言うのに、外は思いのほか寒かった。私は立ち止まりオーバーを着て連絡船に乗った。
 船の中は引揚船と同じように、客室が高さ三十センチほどのおよそ五メートル四方のマットがしいてある床で、その上で私たちは寝転んだ。途中、波がかなり高くて酔ってしまったが、ずっと寝たままだったのでつらくはなかった。父も寝転んで、母から満州国から引揚げる時の話を、うんうん言いながら、時には涙ぐみながら聞いていた。

 北海道に着いてからが本当に長かった。函館から目的地の西春別(にししゅんべつ)という所へついたのは、乗り換えを繰り返したのもあるが、実にまる二日かかってしまった。朝もやけむる中、小さな町をふたつすぎて、そこからナラの森林を十キロばかり歩いた所が、私たちの安住の地。
 父は、着くとまず最初に掘っ立て小屋を建てはじめた。ナタとノコギリとスコップを借りると、作業をすぐに開始した。立木を外側に残して、その間を伐採した木の枝でつなぎ、壁の外側を土で固めて、屋根にも枝を何層も重ねれば、もう立派な家のできあがり。囲炉裏は石で固め、風呂は五右衛門ブロを格安で手に入れてきた。私はこんな家をすぐに建てる父を、あらためて尊敬した。
 翌日から、父の金稼ぎが始まった。ここら一帯は、山火事などで細い木しかないので、木材として売るには小さすぎた。そこで、細いブナの木を切って、炭焼きを始めたのだ。炭焼きガマは近くの粘土を焼いて作った。
 どこでそんな知識を学んだのか聞いてみたが、父いわく、なにごとも試しにやってみれだった。

 まわりの入植者が手こずる中、父はちゃくちゃくと利益を上げていった。まず、炭焼き。そして、大きな家を建て。馬で木の根を掘り起こして開墾。それと並行していろいろな農作物作りをして、ソバが育つことをわかった。私たちは、とても美味しく頂いたが、そのソバもわずかしか採れない短い日照時間。このままでは、利益が頭打ちなのは目に見えていた。
 途方に暮れていると、牛や馬の売買をなりわいとする馬喰(ばくろう)が町にやって来た。行ってみると、肌つやのいいジャージという品種のメス子牛が美味しそうに草を食(は)んでいた。父は、一目で気に入ったそうだ。コツコツためた中から大枚をはたいて、家に子牛をつれてきた。その日から、父の勝負が始まった。
 家の一角を牛小屋に改造して、それまで作物を作っていた農地を一部、牧草畑に変えていった。そして、冬の間も草が食べれるように乾燥した草をためる所を作った。子牛はすくすくと成長して、約一年で親牛になり種付けをしたが、首尾よく受精した。そして、約九か月後子牛を生んだ。その子牛のために親牛は乳を出す。それは、約十か月の間続く。同時に、生まれたメスの子牛は成長して、やがて子牛を産んで乳を出す。オスなら、馬喰が高値で買ってくれる。
 こうして、毎日朝と晩、乳をしぼって大きな輸送缶に入れて町へ出荷した。それは、仲買が高値で買ってくれた。結果、酪農が軌道に乗った。牛乳は、毎日のように人々に美味しく飲まれ、米の次によく好まれた。人々の栄養が不足している中、国が牛乳を奨励してくれたのがきいたようだ。それを見ていたまわりの人たちも、皆酪農を始めた。そして、私たちの村の主力産業となった。
 ……と言う話だ。どこまで信じていいかわからないが、とにかく私たちの村ではじめて牛を飼ったのは事実だ。そして、酪農は今も続いている。清二から子の誠太郎へ、そして孫へと。

 そのほか、父は満州国と同じようにニワトリとブタを飼った。だから、私たちはひもじい思いをしたことがなく、元気に成長していった。本当に、父の娘であってよかったと思っている。


 父は、晩年、酪農を子の誠太郎にゆずって、満州時代の仲間のために保険の仕事をしていた。バイクに乗って隣り町にできた弥栄部落をたずね、親身になって保険を世話していたようだ。
 だが、寄る年波には勝てず、多くの孫たちに見送られて一九七七年、七十二歳でこの世を去った。
 四十歳で満州の異国の地を追われ、四十四歳までシベリアの過酷な労働に耐え、五十歳にして未開拓の地、北海道で成功した父。私は、父の不屈の開拓精神をほめてあげたい。よくやったと。

 一方の私は、大人になり近くの酪農家に嫁ぎ、四人の子供をさずかった。だが、なにを思ったのか皆大学へやってしまって、誰もあとをつぐ者がいなくて酪農をたたんでしまった。残念ではあるが、子供の生き方を尊重した結果であるので、仕方ないと思っている。
 そして、私は今年で七十一歳になるが、この人生を振り返ってみて不幸だったとは思わない。波乱万丈ではあるが、それなりに充実した人生を送れたと満足している。
 最後に、満州から引揚げる途中で亡くなった忠にわびたい。ひとりでさびしい思いをさせてごめんね。おねえちゃんが、今会いに行くから待っていてねと。


二〇〇八年 徳子ここに記す。

20160819-雪女 42枚

 

 修正2018/09/18


 わたしは、冬山で拾われた。
 氷点下二十度以下の激しい吹雪の中で、たった一枚産着(うぶぎ)を羽織った女のあかちゃんが火の出るように泣いていたらしい。それを見つけたのは、わたしを育ててくれた父。登山中に遭難して、偶然わたしを見つけ保護した。すると突然雪はやみ、父は無事下山したという。

 わたしが、なぜ冬山に捨てられていたのかは分からない。もしかして自殺しようとした産みの親が、わたしを置きざりにしたのかも知れないし、ただ単に要らないので捨てられたのかも知れない。いずれにせよ、わたしは産みの親に捨てられたのだ。
 わたしの首には、ペンダントが掛けられていたと聞いた。どこにでも売っている安物のイルカをかたどったそのペンダントは、たぶん産みの親が気まぐれにくれたプレゼントかも知れないけれど、わたしにとっては大事な手掛かりとして大切に持っている。
 この話を両親から聞いたのは、小学校に入る前日。わたしは、なんの驚きもなく、悲しみもなく、それを聞いた。
 そのことを学校に入って友だちに話すと、変だと言われ、わたしは泣いて家に帰った。母は、大丈夫よ、大丈夫、と言って、わたしの不安を和らげてくれた。
 幼いわたしに捨て子だと教えたのは、大きくなってから知るよりも心の傷が浅いと思ったかも知れないけれど、それは当たっていた。その後、わたしはなんのわだかまりもなく、すくすくと育った。わたしを、そんなふうに育ててくれた両親に、深く感謝している。

 そして、わたしは十一歳になり、女の子である証、初潮を迎える。両親は祝ってくれたけれど、わたしには悩みごとが、ふたつできた。
 まず、ひとつ目の悩みは、なんでも凍らせてしまことだ。初潮を迎えた翌日に窓を息で温めようとしたが、なぜか凍りついてしまった。冬なのでそうなったのかと思ったけれど違った。なんでも息を吹きかけると、凍ってしまったんだ。
 わたしは、怖くなって学校をお休みした。そんなわたしを心配して、友だちが顔を見にきた。息を吹きかけないように手を口に当てて話す姿は、きっと友だちには奇妙に映っただろう。風邪が移るといけないからと、それらしい言い訳はしたけれど、とても苦痛だった。死にたいと思った。けれど、死は簡単には手に入れられない。そのことが、自分の首を絞めてみて初めて分かった。そんな十一歳。
 そして、ふたつ目の悩みだが、それは笑えなくなったことだ。もしも、わたしに好きな人ができても、キスをする時に相手を凍らせてしまわないかってことを考えると、わたしは男の子に近付けなくなってしまった。もう、誰も愛せないと思うと心が凍りついてしまい、わたしはしだいに無表情になっていった。そう、雪女のように……。

 高校初日の朝、わたしはものうげに家を出る。生理が始まって五年目、わたしの表情は明るくなることはなかった。両親は始めは心配していたけれど、次第に慣れていった。それでも、前と同じように優しくしてくれることに、感謝している。
 四月になったばかりで、さくらの花もまだ咲いていないほど寒いここ札幌では、スカートの下に厚いタイツを履かなければならないのがわずらわしい。母はわたしが履かないときつく怒るところを見ると、どうやらまだ見限られていないようだ。こんな娘を育てさせて、すまないと思う。

 わたしが下向いて歩いていると、中学からの知り合いがニコニコして声をかけてきた。
「おはよう。雪さん」
 なにがうれしいのか、向井秋は手を振った。けれど、わたしはそれに返しはしないし、表情を崩すことはない。これで、普通の人だったら腹を立て、わたしのことをシカトするのだけれど、秋はいくら無視してもダメだ。どこがいいのか、わたしを好きだとアピールしてくる。
「今日もきれいだね」
 鼻歌まで歌い出した。わたしの好きな曲、いきものがかりの『SAKURA』。春になって別れていく二人を歌った悲しい歌だけれど、妙に耳に残る声が今のわたしの気持ちを慰めてくれる。そして、秋の声はどことなくその歌手に似ていて、わたしを夢の世界へと連れて行ってくれる。

 そんな秋を見て、わたしは思い出していた。いつだったか、わたしがイジメられていると、秋がかばってくれた。わたしがイジメられるのは、自分が人と話をせず、話しても冷たい顔で接していることが原因だって分かっていた。それなのに、わたしのことをかばってイジメの標的になることもいとわない秋は凄い。そんなにわたしのことが好きなんだと思うと、胸がせつなくなった。秋とだったら、わたしはきっと上手く笑えるかもしれない。すべてを捧げてもいいとさえ思う。そう、秋とだったら……。
 だが、そんな素振りは見せない。もしも、二人が愛し合ったら、きっと彼を殺してしまうから。
 わたしは、悪ぶって言った。

「ねえ、そんなにしたいの、わたしと?」
「ふふふ。本心はそりゃしたいけれど、俺ら高校生になったばかりだよ。きっと、おサルさんになっちゃうよ。だから、楽しみは高校卒業まで取っておくんだ」
「バカね。誰が、あなたとなんかするのよ」
「えーーー! 雪さーーん。しくしく」
 嘘泣きまで可愛くて、わたしの胸はキュンとなってしまう。でも、無表情で先を歩いていく。彼に期待させないよう、これ以上わたしを好きにならないよう、わたしが彼をもうこれ以上好きにならないように。
 秋はきっとわたしのことは忘れて、いつか元気な女の子を愛する。わたしのような雪女は、今直ぐに忘れてしまえばいいのに、もう知り合って三年にもなってしまった。お願いだから、これ以上わたしを好きにならないでという願いは、いつか叶えられるかしら。いなくなったら、きっと悲しむのに。
 わたしは、心乱しながらもいつものように無表情で校舎に入っていく。

 初日、わたしたちは自己紹介をさせられた。わたしの番がきた時、みんなは眩しそうに見ていたけれど、直ぐに興味をなくした。わたしが無表情だから。そんな失望の時を、中学の時と同じように秋に見られずによかった。彼は、違うクラスだったから。
 そうして、わたしの高校生活が始まった。

 高校に入ってから三度のさくらの開花を見た。そのたびにいまいましい冬が終わったんだとほっとする。今年も、蝉も鳴かない夏が来て、あっという間に去ってしまう秋が過ぎ、また気が重たい長い冬が来た。その年の積雪はあまりにも多くて、札幌市は予算が足りないと悲鳴をあげていたと言う。わたしも除雪の手伝いに毎日のように駆り出された。
 そして二月になった。あと少しで冬が終わる。なにも起こらない、なにも起こさない高校生活も、あと、残りわずかになってしまった。そう、それでいいのよ。わたしは、心の中でつぶやく。本当は、いつもとは違う日常を求めていたのに。
 だが、その日はある意味でいつもとは違った。

 学校が終わってからいつものように、父の経営するコンビニを手伝っていると、突然覆面を被った男が押し入ったのだ。手にナイフを持って。
 わたしは始めはただ震えていたが、父が手を切られた時、全身の毛が逆立った。わたしの髪は白くなり、口からは冷たい息が出ていた。そこまでだ、覚えているのは。
 気が付くと覆面を被った男は倒れていて、わたしの腕を父がつかんでいた。なにが起こったか、直ぐには分からなかった。けれど、悪い男が気が付いて、わたしを見た時の恐怖におびえる顔で、全てが分かった。わたしが、やったのだと。
 わたしは、いたたまれずに店を飛び出して雪の降る中、夜の闇に身を隠した。もう、ここにはいられない。どこへ行くかもしれぬ電車に飛び乗った。

 電車が着いたところは小樽。その小さい路地裏にわたしは身を隠した。
 最初の日、明らかにわたしの身体が目当ての、いやらしい目付きをした中年の男が声を掛けてきて、わたしはあわててその場から逃げた。そんな風に誰かに声を掛けられ、そのたびに逃げた。まさか、凍らせるわけにはいかないから、非力なわたしは逃げることしかできなかった。
 わたしが段ボールにくるまって寒さをしのいでいると、白い毛並みの猫が近づいてきて足をなめた。だっこをすると猫はゴロゴロと喉を鳴らし、わたしに甘えてきた。懐に入れるととても暖かで、そのまま眠りに落ちた。

 猫の力を借りてなんとか持っていたが、ろくな食べ物もとることができなかったわたしは、しだいに体力を消耗していった。ひもじくて、寒くて、心細くて、もうダメだってあきらめた時、わたしに手を差し伸べてくれる人がいた。
 その人の首には、わたしと同じイルカのペンダントが掛かっていた。それはわたしと同じ物ではあるけれど、どこにでも売っているものだったから、ただの偶然だとその時は思った。けれど、そのペンダントがわたしに安心感を与えてくれた。精も根も使い果たしたわたしは、その人にわが身をあずける。
 おんぶされて、どこかの建物の中に連れいかれた。温かい食事を与えられ、そして暖かい毛布に包まれ、わたしは五日ぶりに熟睡した。それは、もう深い眠りだった。

 目を覚ますと、辺りは真っ暗。時計を見ると五時過ぎで、わたしが拾われたのが昼ごろだから十七時間ほど寝ていたことになる。わたしは久しぶりの熟睡に、しばらく頭がボーっとした。
 ようやくベッドから起き上がり、部屋をそっと出てるとそこは廊下だった。突き当りの窓から外を見ると、どうやら二階のようだ。昨日は眠ったままここへ連れてこられたので分からなかった。
 廊下には閉じられたドアが多くみられた。どうやら住居のようで、かすかに寝息が聞こえてくる。
 階段を降りると、厨房らしい場所に出た。ひとつだけ灯っている照明の中に、わたしを拾った人が一人でいた。なにを作っているか近付いて見ようとしたけれど、制止される。

「君。シャワーを浴びてきなさい。それからだ、探検するのは」
 そう言って、彼は笑った。わたしは、恥ずかしくなって浴室に飛び込んだ。そこには、洋式のバスタブがあり、お湯が出るのを確かめたわたしは、ゆっくりとお湯に浸かってしまう。全身泡だらけで、まるで映画に出て来るヒロインのように。
 お風呂から上がり、なにかわたしに合う服がないかとクローゼットを探してみると、男ものの下着と調理用の白衣があったので、それを借りて再び厨房へ行ってみた。
「お! 中々似合うじゃないか、君。あ、ところで名前は?」
「はい。わたしは、相原雪です」
「僕は冴島ユウ。よろしくね、雪ちゃん。ところで、身体は大丈夫?」
「はい。もうじゅうぶんに休みましたから大丈夫です」
「よかった。だいぶ疲労してたみたいだったから」
「若いですから」
 わたしの言葉にはなんの意図もなかったが、彼は少しだけ気に障ったようで乾いた笑い声がした。
「ははは。さっそくで悪いけど、そこのおイモの皮をむいて」
「はい」

 こうして、わたしはレストランに雇われた。お給料は、十五万円に少し足りなかったけれど、住居付き、三食付きという好待遇。わたしは、一生懸命働いた。
 でも、特別な技能がある分けではないので、主に掃除、ウエイトレス、下ごしらえのお手伝いだった。掃除といってもただきれいにすればいい分けではない。すみずみまで掃いて、きれいな雑巾で拭いていく。そして、少しでも雑巾が汚れれば直ぐに水洗いをして、また拭いていく。はっきりいって、大変な作業だけれど、拭き終わった時にはとてもいい気持になる。わたしは、毎日が充実していた。

 けれど……、わたしを拾ってくれたマスター冴島ユウの働く姿を見るたびに、心が揺れた。わたしの身体を目当てに拾ったんではないことは、出会った時にしていた。なんの後ろだてもないのに、住居と仕事を与えてくれて、わたしには神にさえ思えた。ずっと一緒にいたいと思った。少し前では、向井秋が好きだったのに、その心移りに戸惑いつつも、わたしはマスターを好きになっていった。
 始めは安心感から、次に優しさに触れ、それにも増してマスターの指先が堪らなく愛しい。あの、料理をする時にみせる器用な指の使い方に、わたしはあこがれと同時に愛おしさを感じずにはいられなかった。

 わたしになにか感じて救ってくれたと思い聞いてみたのだけれど、マスターの言うには若い頃家出をして困っていた時に、女の人に助けられたそうだ。その恩送りとして、困っている人がいる時には手助けをしているという。
 恩送りとは、恩を受けた人に返すのではなく、違う人に恩を返すことと教えられた。そうすると、その女の人にわたしは救われたことになる。そして、わたしが恩送りすると人の絆は永遠に繋がっていくように思える。
 けれど、わたしには恩送りをする自信はないし、人を愛することもできはしない。

 わたしは仕事が落ち着くと、せめてあの猫に恩返しをしようと迎えに行った。
 けれど、いくら探しても猫を見つけることはできなかった。とても重い気持ちで寮に帰った。それでも一生懸命に働かなければならない。猫はきっと誰かが飼ってくれたんだと思うことにした。

 その夜、わたしはぐっすりと眠った。夢の中で猫がミルクの皿をペロペロなめていた。久々にいい夢だった。

 翌朝、わたしは誰よりも早く起きて皆の朝食の支度をする。まだ日が出ておらず小鳥のさえずりも聞こえない。シーンと静まった中で朝刊を配達するバイクの音だけがひびく。わたしは初めての労働で身体はふしぶしが痛かった。それでも、眠たさをこらえて台所に立った。辛いがこれくらいしないといけない。わたしは新人なのだから。
 朝ごはんは、クロワッサンに目玉焼き、カリッカリに焼いたベーコンとスライスしたトマト、ブルーベリー・ヨーグルト、そしてカフェオレ。それほど手間がかかるメニューではないが、なにせ5人分。結構重労働だ。わたしはこれを毎朝用意している。
 皆が食事にくる前に厨房へ行って掃除を始める。掃除が終わったころ皆が厨房に入ってきて「おはよう」と「朝食、ごちそうさま」と言ってくれる。わたしはそれだけで朝の疲れが取れた気がした。

 レストランには三人の先輩たちとマスター、それにわたし。皆この寮に住んでいる。コック二人のうち一人が女性で、ウエイトレスが一人いた。手間の掛かる下ごしらえ作業は、わたしも含めてウエイトレスがコックを手伝う。
 この皆でやる下ごしらえの時間が、わたしは好きだ。皆で輪になって、ワイワイ言いながら進める作業。量が膨大なので黙ってしているとキツイが、この世界では珍しく皆で下ごしらえをするのは、やはり仲間だという気持ちが強いからなのかも知れない。
 先輩たちは、マスターが皆拾った人たちだった。多くは語らならかったけれど、それぞれわたしと同じように、心に傷を隠している。
 虐待。ネグレクト。過保護。理由は、さまざまだけれど、きっと原因はひとつだ。子供を、一個の自立した個人と認めていないためだ。子供は、親の所有物ではなくて、ちゃんと心を持っている一人の人間であることを、分かってほしい。

 そのことを一番分かっているのがマスター。彼は、仕事をしている者に安易に手を貸さない。じっと待って、仕事を完了する喜びを教えて、同時に責任の重さを分からせてくれる。だから、先輩たちからマスターの悪口を一度も聞いたことがない。ますます、心寄せてしまうわたしだった。
「また見てる」
 ウエイトレスの先輩、糸田真理子さんが、わたしの気持ちを分かってからかってくる。だが、決して人には言わずにいてくれた。皆、決して自分がやられて嫌なことはしない。それだから、わたしはますますこのレストランへの愛着が湧くのだ。

 レストランに勤めて一か月。だいぶ仕事にも慣れて、身体がようやく楽のなってきた頃。わたしに好意を持ってくれる人がいた。一番年長でコックの一之瀬ワタルだ。彼は、身長が高く百八十九センチもあり、肩幅も広くて、短髪でさっぱり決めている。はっきり言って男前だ。彼は、皆にも分かるくらいにあからさまに、わたしに好意を示した。
 うれしかったが、わたしはしょせん雪女。人に好かれたからといって付き合うことなどできない。お断りをしようとしたが、返事は一週間後にくれと言われ、わたしはその間ワタルを意識するようになってしまう。

 そのやり取りを誰かが見ていたのだろう。翌日からイジメが始まった。
 始めはクツにガムを入れるという些細なことだった。でも次にはクツを燃やされた。これはレストラン内で問題になった。だって、燃やされたクツはマスターから支給してもらったものだったから。
 皆に注意周到がなされたあとに、わたしのペンダントが盗まれた。不注意にも、シャワーを浴びる時に外してしまった。偶然それを見ていたのがワタルで、犯人はウエイトレスの先輩、糸田真理子だった。
 彼女は、皆がいる前で座らされて、しばらく口を閉ざしていた。だが、突然せきを切ったように話し始める。

「雪ちゃんが悪いのよ! いつのまにかワタルさんを虜にして。わたしなんて、二年以上も前から好きだったのに!」
 そう言って真理子さんは声をあげて泣いた。告白ともいえる自供に、わたしはすごく羨ましくなった。わたしは、今まで一度も告白はおろか、そんな素振りをすることさえ許されることではなかったのに。高校時代、好きだった向井秋にさえ、わたしの気持ちは伝えられなかった。彼を思って何度も自慰をしていたくせに。

 わたしは、真理子さんのことを応援したくなり、今思っているワタルさんへの気持を言った。
「わたしは、ワタルさんのことは好きですけれど、それはいい先輩としてであり、恋人にしたいというものではありません。わたしの好きな人は……」
 そこで止まってしまった。でも、この場を誰も傷付けることなく収めるには、言わなければならない。皆が見守る中、わたしは精一杯の勇気を出した。
「わたしの好きな人は、マスターです!」
 言ってしまった。それも、本人がいる目の前で。マスターはしばらくの間、目を泳がせていたけれど、わたしの目をちゃんと見て言ってくれた。
「ごめん。僕は、雪ちゃんには相応しくないよ。だって、僕は今年で三十五だよ。だから、僕にはもったいなさ過ぎて……。ごめん」
 マスターがそう言うだろうことは薄々分かっていた。だから、わたしは告白したのだ。

「わたしの方こそ、ごめんなさいね。気にしないでくださいね。勝手に思っているだけですから」
 そう言って、わたしは笑い飛ばしたけれど、不意に涙が零れてしまった。
「あれ? おかしいなー。一体なんだろ。あははは」
 いたたまれず、その場を駆け出して、自分の部屋に閉じこもった。
 泣きながら、これではわたしが居づらくなってしまうと心配したが、真理子さんが謝りに来てくれた。
「雪ちゃん、ごめんなさい。わたしったら変な勘違いをしちゃって。でも、いまさら許されないわよね。わたし、ここを出て行くわ」
 その言葉にあわてたわたしは、「真理子さんが辞めたら、わたしも居づらくなります。だから、辞めないでください。お願いします」と言った。
 ワタルさんもあとから謝ってくれた。「一週間待つと言ったのは、そのあいだ僕を見ててくれという気持ちからだった。君の気持ちを考えないですまないことをした」と言った。

 こうして、この問題は誰も辞めることもなく落ち着いた。けれど、こうなった原因は、わたしが誰とも付き合っていないことにあるのは明らかだったし、その原因を解決することは永遠に無理なことは分かっている。ますます、無表情になるわたしだった。

 マスターに拾われてから二年、わたしは二十歳になっていた。皆は、わたしの成人を盛大にお祝いしてくれた。誕生日も過ぎていたから皆にすすめられて初めてのお酒、シャンパンをごちそうになる。一杯で止めておけばいいのに、三杯も飲んでしまった。天井がまわって気持ち悪くなってしまい、わたしはトイレに連れていかれ、もう少しで吐くところだった。
 便器に寄り掛かって休んでいるとマスターが現れお姫様ダッコして、わたしを部屋まで運んでくれた。わたしが酔って抱き付くと、マスターは優しく抱きしめて頭を撫でてくれた。
 その時、ようやく気が付く。わたしの息は人を凍らせてしまうことを。わたしは、マスターの腕を引き剥がし言った。
「ご、ごめんなさい」
 わたしの態度に一瞬驚いたが、マスターは直ぐに優しい顔になって謝った。
「こっちこそ、ごめんな。雪ちゃんを見ていたら、なんだか自分の子供に思えてきて、つい抱きしめっちゃったよ。あははは」
 その時、わたしは分かった。マスターのことが好きだって思っていたけれど、実は本当の父を思うように慕っていたことが。
 ようやく自分の気持ちに気が付いて心があったかくなった時、なぜかマスターは昔話を始めた。

「あれは今から二十一年前だった。当時僕は親と折り合いが悪くて反発していたが、ある日ついに家を飛び出した。でも、僕はまだ十六歳になったばかりで、どこにも居場所なんてないことにようやく気付いた。町のゴミ箱をあさっていたがついに力尽きる時がきた。薄れゆく意識の中にはたくさんのごちそうが並んで、ああこれは幻覚だ。もう直ぐ僕は死ぬんだと思った。
 その時一人のきれいな女性が、僕に声をかけておんぶしてくれた。一生懸命に僕をおんぶして運ぶ姿に、思わず涙がこぼれて止まらなかった。その時にごちそうになった食事は、今も覚えているよ」
 マスターは、そう言ってほほ笑んだ。そんなに素晴らしかったのかと思い、期待して次の言葉を待っていると、彼は言った。
「たくあんが二切れ乗ったお茶漬けだった。なーんだと思っただろう? でもね、一週間もろくに食べていなかった僕には、この上ないごちそうだったんだ。
 それから僕は彼女の家に居候させてもらって、アルバイトに漕ぎついたんだよ。最初にしたバイトが新聞配達だった。始めは朝起きるのがきつくてね、その女性に毎朝起こされたいたんだ。でも、それにも慣れて高校にも行くことができた。
 その女の人に、なにかお礼がしたいって言ったら……」
 マスターはここで言い及んでしまった。なにかを隠して話しているのだろうが、わたしには分からなかった。辛抱強く次の言葉を待った。
 時計の音がみょうに響く。窓の外をのぞくと、いつの間にか雪が降り出していた。雪は、静けさをより際立たせた。
 マスターは、ようやくなにを言うか整理が付いたのだろう。再び口を開いた。

「わたしを抱いてくれって言ったんだ。あなたの子供がほしいからだって言って。初めは耳を疑ったよ。でも、彼女の目は真剣だった。なぜだって聞いても彼女は訳を話してくれなかった。それは言えないって。
 僕は彼女に大変な恩を感じていた。しかも、彼女はそれはきれいな人だった。長い黒髪を後ろで丁寧にまとめ、一重の切れ長の目は誰をも虜にするだけの魅力があった。正直言えば、僕は毎日湧き上がる衝動をなんとか抑えつけて、彼女と同じ家に暮らしていたんだ。
 だが、そんなことを言われて、若い衝動はもう限界だった。僕は彼女の申し出をありがたく受けたんだ……。
 その時の子供が雪、君じゃないのかな? だって、君は二十歳になって彼女に驚くほど似てきたし、それにそのペンダントは僕が初めてのアルバイト代で買ったお揃いのものかも知れないんだ」
 そう言ってマスターは、わたしにイルカのペンダントを見せた。そのペンダントのことは知っていたので驚きはしなかったけれど、わたしがマスターの子供かも知れないと言うことには、驚いてしまった。そして、母についての手がかりをなにかしら求めていると思った。
 そう言われても、わたしには産みの母のことは全く分からない。なにせわたしは、雪の中に捨てられたのだから。
 それでも、わたしの特異体質が知らせていた。わたしは雪女だと。そうして考えてみると母が人間界に新たな血を求めて、それに若かったマスターが選ばれてわたしを生んだと考えられなくもない。けれど、そうするとなぜわたしが捨てられたのかが分からない。

 わたしは、このことを言っていいのか考えた。けれど、それを話すとわたしが雪女だと知られてしまう。どうみても普通の人間であるマスターに知られていい分けはない。
 申し訳ないが、わたしはマスターに嘘を付く。
「すみません。母は身長が百五十五センチのぽっちゃりタイプです。どうしたってマスターがいう女の人とは思えません。それに父はいます。正真正銘の父です。義理の父じゃないです」
 わたしは精一杯語気を強めて言った。今言ったのは育ててくれた親のことだが、申し訳ないが使わせてもらった。
「そうか、全くの僕の思い込みか。すまないが、今僕が言ったことは忘れてくれないか」
「分かりました」
「きょうは色々悪かったね……。それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」

 マスターがわたしの部屋から立ち去ると、わたしはベッドの布団を深くかぶりため息を付いた。
 まさか、マスターがわたしの父だなんて。そして、わたしの母が雪女でマスターに種をもらったなんて。簡単には信じられなかったけれど、イルカのペンダントとマスターの話、そしてわたしが雪女であることから、どうしても本当としか思えない。
 けれど、わたしは母に会いたいという気持ちよりも、わたしの中に流れる雪女の血を呪った。なぜ、わたしが雪女などという呪われた血を引かなければならないのか、ただその一点が理不尽に思えてならかった。そのために、わたしは好きな人に告白できずに一人寂しく生きているのに。

 その夜は、お酒に酔って眠くなるはずなのに、わたしは色々考えてしまって中々寝付けなかった。しんしんと降り続く雪を、しばらく眺めていた。

 一月二十四日、あの人は突然やってきた。長い黒髪を後ろでまとめ、一重の切れ長の目をして。
 その女はレストランの一番暖房が当たらない場所を選ぶと、メニューをひととおり見て言った。
「すみません。冷たいサラダと冷たいビシソワーズ、そしておまかせカナッペをお願いしますね。あ、それに適当な赤ワインを一杯。値段はそうね、千円くらいでいいわ」
 そう言ってその女は、わたしに微笑み掛ける。冬なのに全部冷たい料理を頼む人を初めて見た。普通なら、お腹が冷えないだろうかと心配するのだが、容姿を見て直ぐに気が付いていた。この女は雪女だと。
 厨房に注文を伝えに行く時に、ポケットに紙が入っていることに気付く。見ると、お話をしましょうと書いてあって、電話番号が記されていた。
 そっと様子をうかがうと、女は他のウエイトレスや時々顔を出すコックの姿を見て微笑んでいた。幸運にも、マスターはこの時現れなかった。もし、姿を現したらどうなっていたか、想像もできない。
 女が、マスターのことを知っていてここに来たのなら、それなりのアクションがあるはずだが、のんびりと従業員をみていることから、やはりマスターの存在に気が付いていないと思った。
 女は、そのまましばらく周りを眺めていたが、食事がくると美味しそうに冷たい料理を食べていた。そして、食べ終えると静かに出て行った。
 ほっとして肩の力が抜けたのが分かった。わたしはそのあとも仕事を続け、店が終わると意を決して電話をかけた。

 女は喫茶店の一番暖房が効かない席に着いていた。わたしが来たことに気が付くと、読み掛けの小説にしおりを挟んで言った。
「わたしが誰だか分かる?」
 冷たい微笑は、まさに雪女のそれだった。わたしは肌寒さを感じて、マフラーを脱がないで席に座り、極力平静に言った。
「ええ、おかあさんでしょ?」
「ふふふ、さすがわたしの子供だわ。感がいいわね」
 そう言って、女はタバコを取り出して火を付けた。煙が女の鼻孔から吐き出される。けれど、その匂いは意外に優しかった。
 その時ウエイトレスが注文を聞きにきて、わたしはメニューを見ずにコーヒーを頼んだ。
 静かな時間が流れて、わたしはにらみ付け、女はうれしそうにわたしを見ていた。喉がかわいているのに気付き、わたしは水を一口飲んで言った。
「それで、どういったご用件でしょう?」
「まあ怖い。そんなに怒らないで。久しぶりに人間の里に下りて来たから、疲れているのよ」

 そう言って女は、アイス・ティーを美味しそうに飲んだ。見ているこっちが寒くなる。
 ふと、なにも塗らない爪を、きれいに伸ばしているが目に入った。見とれていると、女は長い髪をほどき、指で掻き上げた。その姿は、清楚で美しかった。
 そう、女は四十前後のはずだけれど全く老いを見せていなかった。まるでわたしと同じ年齢みたいに若々しかった。
「それでね、あなたは今の生活が気に入っているんでしょう? さっきのお仲間たちを見て思ったわ」
「ええ、ここはわたしのオアシスみたいなところなの。だから、じゃまはしないで、おねがい」
 わたしに必死の願いを受け入れたのか、女は両の掌(てのひら)をわたしに見せて言った。
「分かったわ。なにも無理やり連れに来たんじゃないから。もしも、雪女の生活がいいようだったら連れて行こうとしていただけ。でも、人間の生活が気に入っているみたいだから、それはなしね」
 やっぱり思った通りだ。この女はわたしを雪女の世界に連れて行こうとしていたんだ。けれど、わたしに選択をさせてくれた。
 わたしは、ほっとして今までずっと疑問に思っていたことを聞いた。

「おかあさん。あなたは、なぜわたしを捨てたんですか?」
 わたしの言葉に、女は急に真顔になった。ふいに女の目から涙が零れ落ちそうになった。
「あなたを捨てたのは悪かったわ。でも、人間社会に受け入れてもらうには仕方がなかったのよ。
 あなたは、生まれた時とてもかわいいあかちゃんだった。それはもう、溢れるような笑顔をたたえてね。だから、わたしは人間にあずけることを選んだのよ」
 わたしは、その言葉を聞いて涙が溢れてきて止まらなかった。けれど、女の胸を借りようとは思わなかった。それをしてしまうと、雪女の世界に連れていかれそうで。
 ウエイトレスが新しいオシボリをくれた。わたしは頭を下げてそれを受け取った。
 雪女はしばらくわたしを見守っていたが立ち上がって言った。
「ああ、それから好きな人とキスをしても、相手を凍らせてしまうことはないから安心してね。がんばるのよ。それじゃ、元気でね」
 女は、泣いているわたしを置いて行ってしまった。わたしは、そのうしろ姿を見えなくなるまでずっと見送った。やがて女は雪に隠れるように消えた。

 次の月曜、店は定休日でわたしは育ての両親が住んでいる町へ行った。けれど、どうしても両親と会う気にはなれなかった。なにせ、父が見ている前で、わたしは力を使ってしまったのだから。きっと両親も、わたしとは会いたくないだろう。
 けれど、高校の同級生だった向井秋には会いたい、そして高校の時に告げられなかった思いを今伝えたい、その思いでわたしはここへ来たんだ。

 家業の酒屋を継ぐと言っていた彼は、きっと元気に働いているだろう。わたしは、そっと店の中を覗いた。
 レジにはお腹が大きな女の人がいた。まさかと思ってしばらく見ていると、その女は秋のことを『あなた』と言った。わたしは自分の耳が信じられずにしばらく呆然とした。けれど、その女は再び秋のことを『あなた』と言った。
 わたしは、とてもこの事実を受け入れることはできなかった。少し前まで彼はわたしの虜だったはずだ。わたしとシタイと言っていた。なのにどうして……。
 なにかが、わたしの中で砕け散った。女が商品の補充をしようと店の奥に引っ込んだ時、わたしはそっとうしろから近付いた。
 次の瞬間わたしは力を使ってしまった。あんなに自分の力を忌み嫌っていたのに。
 突然のことに声も出せずに驚愕している女に、息を吹きかけた。みるみる凍り付いていき、女の命が尽きようとしていた。
 その時、不意にわたしの腕をつかむ人がいた。顔を見ると秋だった。驚いたわたしは力を閉じた。
 彼は、わたしの顔を悲しそうに見つめこう言った。

「もう止めてくれ、雪」
 彼は、すごく辛そうだった。
 彼の今の言葉で、わたしは気付いた。わたしが雪女だということが知られていることを。
「秋は、知っていたのね?」
 秋は、その言葉に目を伏せてうなずいた。目には涙をためて、手は悲しみに震えている。
 わたしは、いたたまれずその場から逃げた。
 きっと、わたしがイジメられた時に、わたしの発する冷気が秋に感じられたのだろう。知られた原因は、それ以外には考えられない。あんなに気を付けていたのに。
 わたしは、必死で逃げた。追ってくる分けはないのに、全力で秋の前から、そして全ての人間から逃げた。

 どれくらい時間がたったのだろう。周りはすでに暗闇で、わたしは目的地も定まらないまま、ただ歩いていた。誰にも踏みしめられていない雪の上に、足跡だけ残して。
 すると、遠くに人影が見えた。人恋しくなったわたしは、おそるおそる近付いていくと、それは雪女だった。
「おかあさん、わたし……」
 雪女は黙ってわたしの肩を抱きしめてくれた。そして長い間そうしてくれた。
 おひさまが顔を出すころ、わたしが泣き止むと雪女は優しく言った。
「行こうか?」
 わたしは、このときすべてを悟った。わたしが、いていい場所はここじゃないって。
「連れてって」
 雪女はこくりとうなずくと、わたしの手を引いてはるか遠くの山を目指して歩き始めた。わたしは、一度だけ振り向いたが、それを最後にもう振り返らなかった。ただ、雪女の歩みに歩を合わせた。


(終わり)